大学に入ったときに、大学から配られた新入生向けの小冊子があった。そこに、当時の学長が書かれた、新入生へのメッセージがあった。のち私は、学長のゼミに入り、親しく先生の学問・お人柄に触れ、仲人までしていただくことになる。
先生は、現在、同志社の総長を務められており、同志社全体を牽引されておられる。入学したての私は、先生の書かれたメッセージを自分の入学した学部の教授でもあり、学長を務められている偉い先生の文章だと思い真剣に読んだ。
そこに先生は「人生の目的とは、そして追い求めるものとは、『幸せ』に他ならない」と書かれていた。当時、まだ若い私には、先生が学生に伝えようとしたことの意味を十分に理解することはできなかった。しかし、偉い先生が、若い私たちに、まず伝えようとされたことが「幸せ」ということ、それが人生において、大変大切なことだということは、未熟な私にもおぼろげながら理解できた。
それが「幸せ」という言葉を意識するようになったきっかけである。
私が、家内との結婚を決め、家内の実家に挨拶をしに行ったときのことだ。当時、大学を出てまだ間がない私は、自宅の離れで小さな塾を開いていた。それを自分の生涯の仕事とする覚悟もなく、生徒数もほんの4~50名程度。なんら、将来の保証もない身分であった。たしか、寡黙な相手の父親に向かって、今の自分の現状と、将来の展望、そして家内を幸せにしたいというようなことを拙い言葉で語ろうとした。すると、彼は、私の発言を手でさえぎって、こう言った。
「幸せとは、このようにするから、あるいは、このようになるから『幸せ』だというものではない。そんな幸せなど私は信じない。幸せというものは、20年も、30年も経ったとき、振り返って、あのときは大変だったけど、良かったね、幸せだったね、そう思えることが本当の幸せで、今、言葉で語ろうとするようなものは、娘に与えたい幸せではない」と。
あれから時は流れ、当時の先生や義父の年齢を今や私の方が超えるに至った。歳を重ねると、あの頃、人生のまだまだ始まりたての頃に分からなかったことが、少し分かってきたような気がしてくる。
私は、2004年11月4日に、当時中学3年生だった息子を失った。息子は、回りの人間も、そして本人すらも誰も気づかないうちに腫瘍で脳が冒されていた。10月27日、腫瘍から突然大出血があり、自宅で倒れ、そのまま意識を取り戻すことなく亡くなった。
その日の、息子が倒れたというあの電話があるまで、私は、息子が死ぬ、息子を失う、そういうことを考えたことも、想像することもなかった。
しかし、現実は冷厳であった。11月5日に、私は息子の骨を拾うことになる。
あの悪夢のような10日間、私は、間違いなく狂っていた。発狂というのは、あのような状態を指すのだろう。他の子どもたちや家内の支えがあって、何とか精神異常をきたす直前でとどまったというのが事実である。しかし、その狂った頭で、私は、まだ15になったばかりの息子の臓器をドナーとして提供することを選んでいた。息子の身体の一部が、今なお、どこか私の知らない所で生きていてくれているということ、彼の死が全くの無意味ではないということ、そう信じることが、私にとっての唯一の心の支えである。
さて、今、私は、幸せとは何かと考える。詩人カール・ブッセは、「山の彼方の空遠くに幸い住むと人のいう」と、幸せの所在についての世の人たちの思いをうたった。しかし、幸せは、見えない「山の彼方」に本当にあるのだろうか。
今、つくづく思うことは、子どもがいて、家族がそろっていて、笑顔があって、日常の営みがあって、平穏があって、振り返ったときにあの日々が良かったと思えること、実は、そういう当たり前の日常が、幸せの本体ではないかということだ。
私は、約5年前に成学社にお世話になる直前、ある人にゼロから塾を立ち上げることを依頼され、1年9ヶ月で数百人の生徒が通う個人塾を作った。激戦区で短期間に実現した数百人の塾は、私にとっては勲章に思えたが、金融業出身で塾については、全くの素人のオーナーは、塾を開けば生徒が集まるのは「当たり前」のように感じたようだった。私は、失望しその塾を去ることにした。
そのとき、そこで手伝いをしてくれていたある年輩の方が、私に語った。
「オーナーにとって生徒が次々に集まることが、当たり前になってしまったんですね」と。
そして去る私に「有り難いことは、当たり前のこと。当たり前のことこそ、有り難いこと」という言葉を贈ってくれた。
有り難いとは「滅多にない」を意味するとは、高校の時に、習った覚えがある。「有り難い」の反対は、「当たり前」だ。
私は、その2つが実は同じものだということを、最近になってようやく分かり始めてきた。「当たり前」のことこそが、「有り難い」ということを。
さる3月11日、未曾有の大地震がわが国を襲った。そのとき私は、大阪梅田の本社にいた。滋賀の教室と電話で話をしていたスタッフが、「滋賀で大きな地震が、今起きているようですよ」と声を上げた。
しばらくして、梅田の本社ビルも、実に長く、そして大きく揺れた。
ホームページを開いた。震源地は、宮城県沖とあった。
その遥かな距離を知り、ただならぬことが今まさに起きたことを知り、私は息をのんだ。
ホームページには、3時に三陸地方や福島県の海岸に津波が来ること、その高さが10メートル以上と予想されていることが、緊急速報されていた。10メートルと言えば、3階建てのビルの屋上すらも波に洗われることになる。しかも、入り江となった湾内では、津波は両脇から次第に狭められて、その高さは増大するはずだ。
壁の時計を見た。2時55分。あと数分で、津波は、東北地方の海岸に到達する。今から、数分後に、そこに住まう人たちの身に何が起こるのか。かつて、テレビで見たスマトラ沖地震の映像が頭に浮かんだ。
そして、現実は、私の想像をはるかに超えるものであった。後は、テレビなどのメディアが伝えるとおりである。
震災の数日後、本屋に立ち寄った。
旅行コーナーに、海外や国内旅行のグラフ誌がたくさん並んでいる。
その中に、「仙台・松島・三陸海岸」を取り上げた本があった。思わずその本を私は買い求めた。
大判の明るいカラーの旅行誌。地方の紹介には、町の人たちのたくさんの笑顔があった。数々の名所と並んで、地域の特産品、土産物、名物のグルメ写真。そして、くつろげそうな旅館やホテルの紹介。三陸海岸は、素晴らしいドライブコースでもあったようだ。
しかし、その旅行誌に紹介された町は、もはやすべて存在しない。
実は、私の死んだ息子が、亡くなる年に学校の修学旅行で訪れたのが、まさしくこの地方だった。ずいぶんと楽しい修学旅行だったようで、遊覧船で友達と海岸をめぐった話、東北の大学に進学したくなったことなど彼の夢を聞かされた。
海岸で撮ったクラスの集合写真が、私の家にある。
しかし、その写真におさまった息子も、後ろに青く広がる風景も、そしてそこにあったであろう数多くの幸せも、永久に失われてしまった。
今日も昨日のように、明日も今日と同じように。そう当たり前であることを、願っているのは、誰しも同じである。しかし、普段は、その尊さ、有難さに気がつかずにいる。
息子は、中学受験で大阪の清風中学にやっとの思いで入学した。遅く始めた中学受験。性格は気ままで国語が決定的に苦手な息子だった。少し目を離せば勉強をさぼろうとする子供だった。しかし、親子の仲は良かったので、塾の送り迎えも勉強のアドバイスも、受験で苦しむ息子には申し訳ないが、私には楽しい時間だった。息子にもそういう気持ちは伝わっていたようだ。そのころの私は、確かに「幸せ」だった。
そんな私のことを、受験が済んだ中1の息子は学校の作文に書いた。私を知る人から見れば、吹き出しそうな内容だ。しかし、いつまでも、うだつの上がらぬ父親のことを、ひょっとしたら、あの当時、この世でたった一人、勘違いしながらもあの息子は、好意的に見てくれていたのかもしれない。
本当ならば、これから大学受験の相談も就職活動の悩み事も、そして将来の希望も聞くつもりでいたのだが、それも私にはかなわぬ夢となった。
今、仕事でフリーステップや代ゼミサテラインの生徒の保護者の方とお話をする機会は多い。勉強のことや受験のことで困っていますというお話に、そういう日常を過ごすことができるその方を「幸せ」だと、ふと思ってしまう。
今、私は、家に帰れば当たり前のように家族がいて、実家には年老いた両親がいて、会社にくれば仲間たちがいる。この「当たり前の毎日」と、「当たり前に与えられている全て」が、実は、有り難く、そして、幸せの実体だということを最近、つくづく感じるようになってきた。
歳のせいだろうが、あの恐るべき大震災の現実に日々メディアを通して触れているせいだろうか、当たり前の日常を大切に生きたいと、心から思うようになっている。そして、受験や日々の勉強で大変だと言う生徒たちや、お子さんの学校や勉強のことなどで困られている保護者の方にも、ぜひそのひとときを、その「幸せ」をじっくりと味わって欲しいとさえ思ってしまうこのごろである。