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「人を理解する」ということは「誤解の総体である」

エリアマネージャー
八尾教室 学習プランナー

茅島健太郎先生

趣味:読書・音楽
好きな著者とおすすめの本
・司馬遼太郎:竜馬がゆく
・宮城谷昌光:楽毅
好きなスポーツ:
バスケットボール
好きな言葉:
「世の人は
我を何とも言わば言え
我なす事は 我のみぞ知る」

発する言葉をただ聞くだけでは理解はできず、その感情の起伏や判断基準から、その人を見なければなりません。

「理解とは、誤解の総体にすぎない。」
これは、村上春樹の小説の中で出てきた言葉です。(既に小説の内容は記憶にないですが、学生の頃から本を読んでは心に留まった言葉を書き留めておりましたので、言葉だけが色あせずに残っております。(笑))
私は人と接する上で、特に生徒と接する上で、この言葉をよく意識しています。
(作中の言葉の意図は前述の通り記憶にございませんので、あくまで「言葉」を私なりの解釈で捉えておりますのであしからず)
他人を理解するということは、本当に難しい事です。我々は、他人の行動を見て、発する言葉を聞いて、そういった与えられた情報から「この人は優しい」「この人は怖い」など判断をします。しかしそれは、あくまで自らが得られる情報からであって、その人のすべてを知った上での判断とはなりません。

私は塾の先生であり、生徒と接するのは塾の中だけです。そして、更に言えば、(当たり前の事ではありますが)生徒が塾にいる大半は授業の時間であり、私が会話をするのは休み時間など本当に限られています。だからこそ限られた時間の中で、私は生徒の事を精一杯理解したいと思っています。
例えば、「遅刻」や「宿題忘れ」をした生徒に対して、その事実だけをとって見れば「遅刻はするな」「宿題は必ずしてこい」この様な注意をすべきなのでしょうが、それでは根本的な解決にはなりません。「なぜ遅刻をしてしまったのか」「なぜ宿題ができなかったのか」そこを掘り下げて聞いて考えてあげなければ、理解はできず、改善には繋がらないと考えています。生徒は、本当の言葉を中々口に出さないものなので、その行動の背景にある原因を知らなければならないのです。宿題ができなかった原因が「学校の課題に追われていたから」ということであれば、学校の課題を効率的にするにはどうすればいいかを考えなければいけません。「クラブが忙しい」ということであれば両立する為の策を練らなければいけません。もちろん生徒の「言い訳」である時もあるかもしれません。でも少しでも生徒から発せられる情報をキャッチし、少しでも多く、「理解」しようとする姿勢でいることを常に心掛けたいと思っています。そうすることで、より良い学習に、そして適切な進路指導に繋がると考えているからです。

私は、「真面目そう」「賢そう」「不良そう」など生徒を雰囲気で判断する事はしません。見た目や態度、限られたごくわずかな情報だけで、そういった判断をするのは、正に「理解」ではなく、ただの「誤解」です。もちろん、発する言葉をただ聞くだけでは理解はできず、その感情の起伏や判断基準から、その人を見なければなりません。ただ、それでも面談などで保護者の方に見せる生徒の一面は、まったく自分の知らない様子だったりしますので、やはり私自身も誤解を重ねているだけで、人を理解するということにはまだまだ程遠いなと思わされます。

過去に、こんな生徒がいました。
「私、勉強全然できへんから志望校なんてこのくらいでいいねん。」
その生徒は、自分は勉強ができないから今いける範囲の学校でいいと入塾面談の時に私に言いました。言葉通り、授業こそ真面目に受けているものの、そこまでの熱意は感じませんでした。しかし、いざ模試が返却された時、彼女は突然泣きだしました。模試に書いた志望校の判定がE判定だったのです。その志望校は、適当な志望校ではなく、彼女の成績からはかなり上の志望校が書かれていました。生徒は、「別にかまわへんし。どうせ厳しいの分かってて書いただけやし。」と、口ぶりはいつも通りなものの、目には涙を溜めていました。実はこの生徒には、心に決めた志望校があったのです。しかし、自分の今の成績が悪いから言っても否定される、馬鹿にされると思い、誰にも口にしていなかったのです。私は、入塾時の言葉から、内に秘めた志望校や、それに対する熱意を見抜けずに、彼女を誤解していたのです。それに気付いた私は、彼女と本当の志望校を共有し、その志望校に向けての指導を始めました。それからの彼女の頑張りは本当に素晴らしかったです。

また、このような「誤解」は教務面でも表れることがあります。
生徒がその解法を本当に理解できているのかどうか、その判別は非常に難しく、問題を解くことができていたとしても、はたして本当にその問題の意図を、例えば公式を、理解して解いたのでしょうか。「正答した」というだけで「理解をした」と捉えれば、それは生徒の事を「誤解」している可能性が充分あります。学習における各単元だけでみれば、公式にあてはめれば簡単な問題は多いです。しかし、定期テストや受験で出てくる問題は範囲が広く、「さてどの解法を使うのでしょうか」と本質的な理解からの解法を求められます。その時に答えられるかが、本当に理解しているか否かを判断するところなのだと思います。なので、普段の授業においても、ただ問題が解けているから良しとするのではなく、「なぜその答えになったのか」「他の公式ではなぜ駄目なのか」「類似の公式もあるがなぜ違うのか」など、発問を繰り返し、生徒の理解を「理解」してあげなければならないのです。

ただ、結局のところでは、我々人間は他人の頭の中を覗く事はできないので、人を理解するということは、おそらく定義で言えば100%の理解はできず、「誤解」が発生し、つまりは「発せられる情報の積み重ね」によって判断をするということになり、「人を理解する」ということは「誤解の総体である」ということになるのでしょう。
先に書いた例の事もあり、私は生徒が先生に発する言葉は、思っている事のほんの一部だと認識しています。だからこそ、私はより生徒を「理解」する為に、より正解に近い「誤解」を積み重ねて、理解にたどり着きたいと考えています。

※本文中の赴任教室名・部署名は原稿当時のものです。現在とは異なる場合があります。

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