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開成教育グループ


この4月に想うこと

みなさん、こんにちは。そして、高校合格を勝ち取られた皆さん、おめでとうございます。
桜の開花予想によると、近畿でも開花が始まり、4月の初旬には満開を迎えるようです。希望を胸に秘め、新年度を迎える季節ですが、東北地方を中心に大地震と大津波が襲い、今もなおその影響が現在進行形で広がっています。私自身、15年ほど前、阪神大震災を経験しましたが、そのときと較べて大きく変わったのは、一つ前のブログで片岡先生が書いているように、さまざまな情報が私たちの耳に入ってくるようになったということでしょうか。恥ずかしながら、私自身も情報の波に翻弄されそうなところもありましたが、その中でもいくつか目に留め、自身を振り返る機会があったので、そのうち一つを紹介させてください。約80年前に書かれた寺田寅彦の「津浪と人間」からです。少し長いですが、一部引用させてください(著作権の切れた書籍をネット上で公開している青空文庫より引用しています。全文はhttp://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/4668_13510.htmlで見てください。)。

学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
 しかしまた、罹災者の側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
 すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。
 災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。
 さて、それから更に三十七年経ったとする。その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。そうして、今回の津浪の時に働き盛り分別盛りであった当該地方の人々も同様である。そうして災害当時まだ物心のつくか付かぬであった人達が、その今から三十七年後の地方の中堅人士となっているのである。三十七年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば一万三千五百五日である。その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打際を照らすのである。津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。

この文章は昭和8年に東北を襲った地震と津浪を受けて書かれた文章ですが、まったくもって現在の状況と同じ状況が繰り返されているのだな、という思いをもたされました。またここまでだと人間は進歩しないものというようにも読めますが、この文章は以下のように続きます。

(中略)
困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。
(中略)
科学が今日のように発達したのは過去の伝統の基礎の上に時代時代の経験を丹念に克明に築き上げた結果である。それだからこそ、颱風が吹いても地震が揺ってもびくとも動かぬ殿堂が出来たのである。二千年の歴史によって代表された経験的基礎を無視して他所から借り集めた風土に合わぬ材料で建てた仮小屋のような新しい哲学などはよくよく吟味しないと甚だ危ないものである。それにもかかわらず、うかうかとそういうものに頼って脚下の安全なものを棄てようとする、それと同じ心理が、正しく地震や津浪の災害を招致する、というよりはむしろ、地震や津浪から災害を製造する原動力になるのである。
(中略)
自然の方則は人間の力では枉げられない。この点では人間も昆虫も全く同じ境界にある。それで吾々も昆虫と同様明日の事など心配せずに、その日その日を享楽して行って、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという棄て鉢の哲学も可能である。
 しかし、昆虫はおそらく明日に関する知識はもっていないであろうと思われるのに、人間の科学は人間に未来の知識を授ける。この点はたしかに人間と昆虫とでちがうようである。それで日本国民のこれら災害に関する科学知識の水準をずっと高めることが出来れば、その時にはじめて天災の予防が可能になるであろうと思われる。この水準を高めるには何よりも先ず、普通教育で、もっと立入った地震津浪の知識を授ける必要がある。

中学から高校に進学しても、やはり勉強は続きます。なんのための勉強だろうと思うこともあるでしょう。寺田寅彦は「人間の科学は人間に未来の知識を授ける」と言っています。不肖ながら私自身も大学で長く科学を学びました。その経験から言えることは、知識は人の目を開かせるということです。挫けることなく学ぶことを忘れないで下さい。出来るかぎり良いといわれる大学を目指してください。そこで学ぶこと、出会う人を通して多くの宝を得ることができます。それが皆さんの未来を作っていきます。開成ハイスクールは、そんな皆さんのお手伝いができると確信しています。

数学科 村上 豊


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