子どものやる気のなさを早々に嘆く保護者へ

2017年8月11日 金曜日

子どものやる気のなさを嘆く親は多い。

 

努力が足りない、忍耐が足りない、塾に通わせているのに思ように成績が伸びない。

子どもにやる気が見えないと、親は言う。

 

塾に通い始めてからひと月もたたないのに、成績が伸びないことを不満に思い、子どもに変化が見えない、やる気が見えないので塾をやめさせたいと言う親がいる。

また、○○高校の受験はもう無理だ、××中学はあきらめた、など、入塾して間がないのに早々に敗北宣言、あるいはあきらめ宣言をする親がいる。

 

そういえば、私の親がそうだった。

自分の中学時代、塾に通わせたが成績が上がらないと、ほんの2ヶ月ほどで塾を辞めさせられた。勉強が好きではなかった私には、親の早々のあきらめは渡りに船。言われるままにその塾を辞めた。

 

今、この塾という仕事をしていると、私の親と同じような反応をする親をたまに見かける。

 

そういう時、私はふと思うのである。

子どものやる気を嘆く前に、その親に本気で子どもを伸ばそうとする持続した「やる気」があるのかということだ。

 

勉強は、そんなに簡単に成果が出るものではない。

それなりに長い努力と忍耐が必要なのである。

 

それは成績を伸ばさなければならない子どもにとってのみ必要なものではなく、

実はそれを願う親にとっても必要なものなのである。

 

自分の子どものやる気を嘆く前に、そしてあまりに早い成果を望む前に、忍耐強く子どもの成績向上を粘り強く求めていくという、「親のやる気」というものを、親は自らに問い直してみる必要も時にはあるのではないだろうかと思っている。

 

■本気で子どもを伸ばそうとする持続した「やる気」がありますか?

フリーステップ香里園駅前教室チーフ 松本克彦

勉強をやり過ぎたと後悔した人などひとりもいない

2017年8月4日 金曜日

夏期講習の申込もようやく落ち着き、夏期講習の授業も本格的に始まった。

 

夏休みという大切な時期に学力を高めようと、この講習会に強い思いをいだく生徒や保護者は多い。

私のように、毎年、多くの生徒を見てきた人間にとってはもちろん、大学受験や高校受験で大切なこの時期を過ごしてきたばかりの個別指導の講師たちにとっても、夏期講習や夏の過ごし方というのが、いかに大切かということは、皆それぞれに理解している。

 

人は、一回しか人生を行うことができない。

自分の18歳、あるいは自分の15歳の体験は、一度しかできない。

 

あの時こうしておけばよかったなあとか、こうすればもっとよかったのにというような後悔は誰しもある。

しかし、二度と同じ経験をできないのが、これまた人生なのである。

 

多くの生徒たちの夏の過ごし方を見てきた我々の目から見て、夏休みを前にした生徒たちのやる気や計画について聞くと、もっとこうしておけばいいのにと意見を言いたくなることは多々ある。

 

どうすればより良いのかが、わからないのは本人だけである。

 

兼好法師は、徒然草の有名な段で、「何事にも先達はあらまほしきもの(何事にもその道の先生や指導者はいてほしいものである)」と書いている。教科書でよく取り上げられる一節である。

 

初めての経験をする者に対して、適切かつ有意義なアドバイスをするのも、また我々の仕事なのである。

 

合格した受験生で、勉強をやり過ぎたと後悔した人などひとりもいない。

勉強をもっとしておくべきだったと後悔するのが、ほとんどのである。

 

我々、指導者の任務は、後悔ないように、成果を出せるように思いっきり頑張らせることも含まれているのだ。

 

無から有を生むことはできない。

かけた努力以上の成果は生まれないのである。

 

ゆるい勉強計画で大切な夏を過ごそうとしている受験生を見ると、それで良いのかと、ふとこんな説教をしたくなってくる。

 

そんな夏の時期である。

 

■勉強をやり過ぎたと後悔した人などひとりもいない

フリーステップ香里園駅前教室チーフ 松本克彦

恥ずかしがらずに、フリーステップの講師に自分の苦手箇所を伝えよう

2017年4月28日 金曜日

講師に自分の苦手箇所を知ってもらおう

 

数学の勉強で、ノートを広々と使い字を大きく書く。

それだけでも計算間違いは大きく減るし、数学の得点力は大きくアップする。

 

なのに、どうしてもノートの文字を小さく書く生徒が多い。

 

また、宿題での自己採点、ノートへの丸つけをするように言っても○はともかく、×をつけることを嫌がる生徒がいる。

 

間違った問題や正解した問題を問題集の上に×印や○印を付けて、自分の勉強した痕跡を問題集の上に残すように言っても、×の印を付けることを避けてそのテキストをきれいなままで残しておこうとする生徒も多い。

 

それは、間違いを他人から、先生や親から、見られることに対する恐れであるような気がする。

 

間違った部分を消さずに赤ペンで訂正して残し、それを踏まえて次は間違えないようにする。

また、復習は間違った問題を中心に行う。

それは勉強の方の基本であるという風に思うのだが、そうしない生徒が多い。

 

自信がない子だから、それをするというわけではない。

 

どうやら、それを見る人から、自分にマイナスの評価を付けられることを恐れているように感じるのだ。

 

学校の先生なら、確かに教える立場と評価する立場の二面性がある。

できない生徒だと思われたくない気持ちはよく分かる。

 

しかし、われわれ塾の講師というものは、生徒を「評価する」のが仕事ではなく、生徒の弱点を「一緒に克服する」のが仕事なのだ。

 

ぜひ、自分の分からない箇所や苦手な箇所を、講師に見せる、知られることを恐れないで欲しい。

 

フリーステップの講師は、一種の医者のようなものだ。

どの部分が分からないのかは、体のどこが痛いのかと言うことと同じである。

痛い箇所、辛い箇所を教えてもらわなければ、その箇所への効果的な治療はできない。

 

恥ずかしがらずに、フリーステップの講師に自分の苦手なところを「さらして」いこう。

どこが苦手なのか、どこから理解が不十分なのかを恥ずかしがらずに、講師に伝えよう。

 

それが、個別指導を最大限に活用する第一歩なのだ。

 

講師と一緒に君の課題を片付けていこう。

講師は、キミの味方なのだから。

フリーステップ香里園駅前教室チーフ 松本克彦

フリーステップの講師たちに高1スタート時の勉強の大切さを聞くと

2017年4月18日 火曜日

フリーステップの講師たちに高1スタート時の勉強の大切さを聞くと

 

個別指導の講師たちはほとんどが大学生だ。

さすがに子ども達に勉強を教えようというような学生たちなので、基本的には皆、学力は高く、そして良い大学に通っていることが多い。

 

彼らに、この間、ある質問をしてみた。

「高校に入学した生徒が、受験勉強を頑張った後なので、しばらく勉強は休んで、まずはクラブなどの高校生活を楽しんでみよう、あるいは塾を休んでみようと言う。そういうような選択肢はあるのだろうか」という質問だ。

 

彼らは皆、口をそろえて、「そういう選択肢はあり得ない」という。

 

彼らは、「勉強をゆっくりしたいというのは分かるが、高校では中学とは比べものにならないくらい、今まで以上に難しい勉強が始まる。さらに英語や数学といった科目は、高校1年生の最初に習うところが大変重要で、そこでの出来不出来が後々大きな影響を与えてしまう」と言う。

 

その意見は、大学受験で一定の成功を収めた大学生とっては、一種の常識なのだろう。

 

昔。ある偉い経営者が、「20歳(はたち)の時に40歳の知恵が備わっていたら天下が取れる」というような言い方をしているのを聞いたことがある。

 

「天下を取る」というのは一つの例えだろうが、要するに、その高名な経営者は、若いうちに先を見通した知恵が、大人の経験を踏まえた知恵があれば、将来のためにその時期を有意義に過ごせるのだというようなことが言いたかったのだろう。

 

高校に入ったばかりの15歳に、20歳のお兄さんやお姉さんたちの知恵を同じように持てというのは難しいかも知れないが、20歳の講師たちの意見と実感を、全く想像できないことでもないだろう。

高校1年生の15歳の時の、高校スタート時の勉強の重要性は、それを疎かにした者は、ほんの半年位先には、苦い時間を持ってしみじみと分かるものである。

 

最低でも高校1年生の夏までは、まずは全力で勉強することだ。

 

そして自分の属している学校の中で、勉強でそれなりの立ち位置を占めるべきなのだ。

 

いったん、高校1年生の時に、勉強ができる生徒であると、教師や友人から評価されれば、その地位を失うことはあまりない。できない生徒であると評価されてしまうと、そういう立ち位置でそれからの高校時代を過ごすことになる。

 

窓の外の散り始めた桜の花を見ながら、いつもこの時期にそういうことを思っている。

 

■高1スタート時の勉強は、高校の成績と大学受験の結果の全てを左右する

 

フリーステップ香里園駅前教室チーフ 松本克彦

高校の学習内容をなめてはいけない

2017年3月10日 金曜日

高校での勉強というものを「なめては」いけない

 

高校受験の勉強が終わり、合格発表もあった。

 

それは、合格したキミたちにとって大変うれしいことだろう。

苦しかった受験勉強が終わったのだから、しばらく一服したくなる気持ちもよくわかる。

この春休みの間に、それまで我慢していたいくつかの遊びをするのも大いに結構だ。

 

ただ、そこで忘れてはいけないのは高校に入ってから始まる勉強の量と質のことである。

 

今度、高校に入学する諸君は、ぜひとも早いうちに高校1年生で学ぶ、数学や英語の参考書を塾や先輩から見せてもらうことを勧める。

そして、それらの科目の参考書や問題集のどの辺までが、いつごろまでに勉強することになるのか、その量と質を教えてもらうことがよいだろう。

 

高校で学ぶ内容を見ると、きっとそれはキミたちの想像を超えて、ずいぶんと難しく見えるのではないかと思う。

 

実際に「大変」難しくなる。

 

高校での勉強は、中学校のそれと比べて格段に難しくなる。

 

入った高校の雰囲気にもよるのだが、最初から授業を厳しく行われる高校もあれば、入学直後の緊張感をほぐすためか、ゆるめの雰囲気で授業がスタートする高校もある。

 

ゆるめの学校では、授業は思ったほどキビしくない。

入学直後のテストでも思ったほど悪い成績でもない。

そこで、すこし高校の学習内容をなめた気持ちになる。

何とかやっていけそうに思う。

クラブの勧誘も始まった。

楽しそうなクラブの見学にも行った。

友だちもできた。

 

そのときに入学前に決意していた緊張感が取れてしまう。

そんな人が多いのだ。

 

そこに落とし穴があらわれる。

 

小学校のころ、勉強ができた。

それで安心して中学に入り、勉強を軽視したらどうなるだろう。

 

「僕は小学校の時には、算数が得意だった」

 

そのセリフを中学校で数学が苦手になった者が口にしたら、周りから小馬鹿にされるのがオチだ。小学校の算数の力が、そのまま中学数学に通用するはずがない。

 

ところが、高校に入ってくる生徒の中には、そういう気分の人たちが多いのだ。

 

確かに高校には、それぞれレベルの差がある。

生徒のレベルや授業のレベルの差はあるだろう。

 

しかし、学ぶ科目の内容の差はない。

 

自分が入った高校ごとに、その科目自体の内容が変わるわけではないのである。

 

なめずに最初からしっかりと学ばなければ、高校の勉強はなかなかに手強いのである。

 

■高校の学力差や格差はあるが、高校で学ぶ学習内容自体には「差」はなく、なかなか手強いことを知れ

 

フリーステップ香里園駅前教室チーフ 松本克彦

「良き受験生」と言うこと

2017年3月3日 金曜日

「良き受験生」と言うこと

 

日本語に「良き」という言葉がある。

いろいろな言葉にその「良き」あるいは「良い」を使うとことができる。

例えば、「良き父親」「良き母親」あるいは「良い医者」「良い教師」などである。

 

これに対して、「悪しき」「悪い」という言葉もある。

「悪い親」「悪い母親」「悪い医者」「悪い教師」などである。

 

さて、ここに一人の役者がいるとしよう。

その役者に、ある舞台で、「良い医者」の役、あるいは「良い教師」の役を演じて欲しいと依頼したとしよう。

きっと、その役者は、たったそれだけの条件であっても、なにがしかのイメージをもってそれらしく演技をすることができるだろう。

 

同様に「悪い父親」の役、「悪い政治家」の役をやってくれと依頼すれば、おそらく彼は、それなりに上手にその役を演じることができると思う。

 

つまり、「良い」という言葉が意味すること、あるいは「悪い」という言葉が意味するものは、それを聞く人たちにとってずいぶんと共通のイメージなのである。

 

さて、前置きが長くなった。

 

話題を君たち高校生に置き換えてみよう。

 

保護者からの、自分の息子、あるいは娘が、まだ受験生としての気構えができていない、とか、受験生としての振るまいができていないという、悩みを聞くことがある。

 

多くの場合、保護者が持っている、「良い受験生」というイメージに、自分の子どもがマッチしていない、合わないということからそういう訴えがあるのだ。

 

今、高校2年生の諸君は、来春の受験を控えているから、時期的には受験生のはずだ。

 

しかし、時期的に受験生であると言うことと、中身まで受験生になっているかどうかは別問題だ。

 

自分が受験生なっているかどうかは、客観的に誰でも分かるものである。

 

「良き受験生」として、世間のイメージ通りのふるまいをしているかどうかということだ。

 

大人の役者にではなく、子役の役者に「良き受験生役」を頼んだとしても、その子はおそらく、夜遅くまで勉強をするとか、いつも単語集を持ち歩くとか、あるいはテレビやゲームというものを遠ざけようとするというような、演技をするのではないだろうか。

 

「悪い受験生」を演じてくれと言えば、子役のその子でも、いつまでもダラダラとテレビを見たり、夜遅くまでテレビゲームをしていたり、申し訳程度の勉強する、そのような受験制約を演じるのではないだろうか。

 

自分が良い受験生になっているかどうかは、どうしても自分が当事者であるために、自分を客観的に見ることが難しいかもしれない。

 

でも、自分の日々の過ごし方を第三者が見たときに、それがどう見えそうか、それを想像することは、そんなに難しいことでない。

 

受験までのしばらく期間、ぜひ「良い受験生」を演じて欲しい。

それが、志望校合格への第一歩だ。

 

まずは、「形から入れ」ということなのだ。

 

■受験を成功させるためには「良い受験生」でなければならない。良い受験生になるためには、まず、その「形」から入るべし。

 

フリーステップ香里園駅前教室チーフ 松本克彦

高校が言う「塾に通わなくても大丈夫です」の台詞は本当か?!

2016年11月4日 金曜日

 高校が言う「塾に通わなくても大丈夫です」の台詞は本当か

 

保護者面談をしていると、よく耳にする言葉がある。

また、高校の教師、特に私立高校の先生方と話をしているときによく聞く言葉がある。

 

いわく、「この学校の授業でやっていることをきちんとやれば、塾に通う必要はない」という台詞、あるいは、それと似た表現だ。

 

つまり、この学校に任せておけば、それに加えて塾に行く必要はないというのである。

 

この言葉をそのまま鵜呑みにして、塾に通わず、通わせず、その結果、成績不良の状態が続き、学習状況をさらに悪化させている生徒がいる。

 

ならば、「塾に通わなくてもよい」という台詞は間違っているのだろうか。

 

教師の台詞には間違いはない。

 

正確に言うと、半分正しい。

 

その教師や学校は、こう言っているのだ。

つまり、「我々が提供するものをきちんとすべてマスターすれば、他からそれに加えて別の新しい学習情報を入れる必要はないですよ」ということである。

 

例えば、「難関大学に進むために必要なものはすべて授業の中で提供する」とそう言っているのだ。

「学校で使っている教材は、難関大学受験用として必要十分なものであり、それにさらに加えて別の教材をする必要がない」「受験のために必要な受験指導は十分に授業で提供をしている」と、そう言っているのだ。

 

この台詞には、大きな但し書きが付いていると解さねばならない。

 

つまり、提供するものは十分だが、それを提供された側が提供されたものを十分にマスターしているか、身につけているかどうかということは別だということである。

 

与えられていることは十分かもしれないが、しかしそれを理解し身につけているかどうかは、生徒一人ひとりの責任に委ねられている。

 

「塾に通わなくても良い」という台詞は、そういうような前提で言われていることと認識すべきなのである。

 

そういう台詞で紹介されている学校の生徒の多くが、自分の力では消化しきれない理解が不十分な箇所を開成教育グループに通塾して習得しているのもまた事実なのである。

 

■たとえ学校が提供するものは十分であっても、それを提供された側がそれを十分にマスターしているか、身につけているかどうかは別問題

 

フリーステップ香里園駅前教室 チーフ 松本克彦

勉強も仕事も、後回しにせず、その場ですべきことを片づけること

2015年12月21日 月曜日

仕事に早く手を着ける、早く終わらせる、社会の中で出来る人の特徴だ

 

習ったことは、すぐにいったん覚えるよう心がけよう、と前回書いた。

私には、その場ですぐに覚えようとするアクションをするかしないかという生徒の行動の差が、のちについた大きな差になっているように思えてならない、とも書いた。

という感想を私が持つ理由は、社会人で仕事ができる人の特徴とこういったアクションが共通するように感じるからだ。

 

仕事にすぐに手を着けて、できる限りをその場で終わらせるという習慣だ。

出来る人は、仕事を後回しにしない。

 

できない人の仕事のかなり共通の特徴は、すぐにその仕事を終わらせるということをしないことだ。

例えば、仕事を頼まれて、その場ですぐにその仕事に手をつければよいのに、いったん資料を机の中にしまい込む。あるいは、机の上にため込む。

簡単な電話をかけるぐらいの仕事でも、すぐにすればよいのに、なぜか後回しにする。

そういう癖がついてしまった人は、できない奴というレッテルを貼られてしまう。

 

受験の機会は、良いとおもったことはすぐにやるという、

社会に出てから大いに役に立つ行動力と実行力を身につける絶好の機会だ。

 

やろうと思ったことでも、すぐにやることができない人がたくさんいる。

良いと思っていても、今までやってきたことを変更することが面倒でやる気が起きない。

そういう人が多い。

 

しかし、良いことをすぐにしようとする柔軟性のない人は、受験勉強という、キミの能力をアップさせる貴重な機会を捨てていると思う。

例えば、どんなに良い勉強法を紹介しても、その紹介を受けただけで、その人は自分の能力を高めることはできない。

 

行動力のある人は、腰の軽い人だ

 

行動力の高い人は、腰の軽い人だ。

例えば、学校や予備校の先生が授業中にある本について「良い本だ」と話したとする。

それを学校の帰りにふらっと本屋に行って確認をする、立ち読みをしてみる。

簡単なことだが、そういう行動がいつも普通にできることが、

社会の「出来る」と言われる人の割と目立った特徴である。

 

私たちの日常の仕事の中で、例えば会社の社内旅行を企画するチームが選ばれたとする。

その話があったその日のうちに、例えば駅に置いてある旅行ガイドやパンフレットを集めて、

帰りの電車の中で実際に手にとって見ることができる人。

そういう癖の人が、できると言われる人の典型的な特徴に思えてならない。

 

よいと言われたこと、良いと思ったことは、まずやってみることだ。

以前にも書いたが、初めてのことでも、いったん習慣になってしまえば、

それを続けることはそれほど苦痛を感じなくなるものだ。

 

仕事を後回しにしないで、その場で片づける。

 

この習慣は、高校生という早い段階で身につけておくと社会に出てから得をする。

仕事が早い、つまり仕事ができる人になることができる。

それは、社会で「出来る」と言われる人になるための、不可欠な習慣だとすら思う。

 

フリーステップ香里園駅前教室チーフ 松本克彦