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開成教育グループ


2012 年 6 月 のアーカイブ

新指導要領と数学

2012 年 6 月 25 日 月曜日

 みなさんこんにちは。梅雨の季節、じめじめした日が続いて憂鬱になることもありますが、みなさんはどうでしょうか?とにかくカラッとした日になることを、私は、日々心待ちにしています。
 さて、今回は新指導要領について書くことにしましょう。みなさんもよく知っているように、今年度から、高校の数学の指導要領が変わりました。今回の改訂の大きな特徴のひとつは、「統計」という分野がかなり取り入れられたという点でしょうか。近年のコンピュータ技術の発展と情報化社会の進展をうけて統計が取り入れられたのですが、統計とは何をする分野かご存知でしょうか?
 少し唐突かもしれませんが、みなさんにひいきの野球のチームがあったとしましょう。そして、そのチームが日本シリーズに出場し、日本一を争うとしましょう。何戦目のチケットを買えば優勝の瞬間に立ち会える可能性が高くなるでしょうか?(日本シリーズとは、2チームが戦って、先に4勝したものが優勝を勝ち取るルールになっています。)この問題に対して、みなさんの中には、次のように考える人がいるかもしれません。「今年は、史上最強に強いから、4連勝して優勝するに決まっている!」
 また、ひいきにしている分だけ、そのチームの欠点が見えている人もいるでしょう。そういう人は「何回か負ける可能性もあるよな」と少し冷静に考えて、過去のデータに当たってみるかもしれません。今は便利な時代なので、少し調べると、過去のデータを見つけることができます。私が調べたデータを以下の表で示します(割合は小数点以下一桁まで計算しています)。

試合数 4 5 6 7 合計
回数 7 15 20 20 62
割合 11.3% 24.2% 32.3% 32.3%

 この表は、過去62回の日本シリーズで何試合目に優勝が決定したかを示すデータです(ただし、引き分けは無効試合にして回数にはカウントしていません)。表を見てすぐにわかることは、6試合目と7試合目が一番多く、同じ回数であるということです。データを調べてみた人は、この表を見て次のように考えるでしょう。「なるほど、さすが日本一を争うだけある。激戦を繰り広げて、一番試合数が多くなるようになっているのだな。よし、6試合目のチケットか、7試合目のチケットを買うことにしよう。」
 さて、最初の人と別の結論が出てしまいました。一体何が起こったのでしょう。実は、このことを明らかにするのが、「統計」という分野になります。実際、高校で習う反復事象の確率の考え方を応用すると、理論上、何試合目に優勝が決定するかということを計算することができます。実際の計算は省略して、それを以下の表で示しましょう。

試合数 4 5 6 7 合計
割合(実測値) 11.3% 24.2% 32.3% 32.3%
割合(理論値) 12.5% 25.0% 31.3% 31.3%

 先ほどの実際の値と並べて、理論値を書き並べました。なお、この理論値を出すために、2チームは互角の力をもっていると仮定しています。さて、表を見てすぐわかることは、1%程度の誤差はありますが、実測値と理論値が非常によく一致していることです。こうして、理論的にも6試合目、7試合目で終わる可能性が高いことが立証されたといえます。では、最初の人が考えた「今年は、史上最強に強いから、4連勝して優勝するに決まっている!」という考えは間違いなのでしょうか?統計の考え方をすれば、実はそういうことは言えません。数行前にさらっと書きましたが、理論計算をする時に「2チームは互角の力をもっている」と仮定していたのです。したがって次のように考えるのが妥当でしょう。「長い目で見れば、日本シリーズに出場する2チームは互角の力をもっているのだろう。しかし、時には圧倒的に強いチームが出場することもある。実際、過去62回のうち、7回は4戦目で終わっているのだから。」
 さて、以上で統計の話を終えますが、どうだったでしょう。「なんだ、当たり前の結論じゃないか」と思う人もいるかもしれません。しかし、数学においては、この「当たり前」に至るプロセスが大事なのです。問題に当たったとき、最初はいろいろな意見があります。そんな中で、実際にデータを調べ、そこに理屈を見出し、しっかりした結論を導き出す、このプロセスが数学で大事にされる点です。皆さんの中には、普段、点数という結果で計られることばかりで「憂鬱だな」と感じている人もいるかもしれませんが、そういった結果、結論にばかり縛られるのではなく、定期テストの勉強や、受験のための勉強をする中で、よく調べ、考え、正しい答えを導き出す訓練をしていってください。

開成ハイスクール数学科 村上 豊

金環日食と数字

2012 年 6 月 18 日 月曜日

 去る5月21日の金環日食。私が住む大阪では、282年ぶりに見られるとあって、少し雲もありましたが、日食用のメガネを通して金の指輪のようにきれいな円を描く美しい太陽を見ることができました。次に大阪で観測できるのは、今から300年後の2312年ということで、「遠い未来の話だなぁ」と思いつつ、少し切なくもなりました。
 ところで、300年後が遠い未来だというのは、1年が365日あり、300年 = 109500 日という、とてつもない日数になるからですが、かつて昔は1年が360日であったことをご存知でしょうか?月の満ち欠けが約30日で繰り返され、それが12回続くとだいたい同じ季節がやってくるということでそのように決められていました。
 ここで、360という数字に何か思い浮かばないでしょうか?そうです。円の角度が一周で360°ですね。この360°は上記の1年が360日であったことに由来しているそうです。私も昔から360という中途半端な数字に疑問を抱いていましたが、地球が太陽の周りを一周するところから引用したといわれると納得です。しかも、360という数字は、100のようなきりのいい数字よりも実用的で、
 1,2,3,4,5,6,8,9,10,12,15,18,20,24,30,36,40,45,60,72,90,180,360の24の約数をもつので、円を簡単に分割しやすい・正多角形が書きやすいなどのメリットがあります。
 普段は360のような数字をあまり気にすることがありませんが、この世の中には多くの数字が存在し、至る所で使われています。今回のブログでも多くの数字が使われていますね。ふと、数字の由来を考えてみると、先人が考えた素晴らしいアイディアや意外な一面を垣間見ることができるかもしれません。

開成ハイスクール数学科 鈴木悠太

定期テストの経験値

2012 年 6 月 11 日 月曜日

 こんにちは。日に日に暑くなり、夏の到来を感じる季節になってきました。
 定期テストが終わったみなさんは、通常の生活ペースに戻り、クラブ活動などにも精を出していることでしょう。貴重な高校生活、クラブやプライベートもしっかりと充実したものにしていきたいですね。

 さて、あと1か月と経たないうちに、期末テストを迎える人も多いのではないでしょうか。改めて、前回のテストのことを振り返ってみてください。日々の瑣末なことに追われて、テスト勉強を十分にできなかったという人はいませんか?私には、テスト後の反省を活かせず、次のテストでも散々な結果になってしまったということが何度かありました。そこで、「テスト直前に勉強に追われるのが嫌だから」と始めたのが、数学の問題集を日ごろからどんどん解いていくことでした。そのおかげで、テストの2週間前には出題範囲がほぼ終わった状態で、他教科のテスト勉強もかなり楽になったことを覚えています。何事も余裕が大切です。余裕を持った勉強こそ長続きし、テストで良い成績をもたらすための秘訣なのかもしれませんね。

 毎回の定期テストを通じて、みなさんは様々なことを経験するはずです。それを「よい経験」として次回に結びつけるためには、反省点を明確にし、具体的な改善策を立て、すぐに実行に移すことです。そうして積み重ねた経験値は、必ずや、来たる大学受験勉強に活かされるはずです。
 
開成ハイスクール数学科 光畑雄策

ダニューブ・エクスプレス(おまけ)あるいはイスタンブル事情

2012 年 6 月 4 日 月曜日

 ダニューブ・エクスプレスの終着駅は、イスタンブルのシルケジ駅でした。このイスタンブル(よく日本では「イスタンブール」と言われますが、現地では「タ」にアクセントを置きます)は、世界で唯一のアジアとヨーロッパにまたがる都市です。マルマラ海と黒海を結ぶボスフォラス海峡をはさんで、東側がアジア側、西側がヨーロッパ側、さらにヨーロッパ側は金角湾をはさんで、南側が旧市街、北側が新市街になっています。ダニューブ・エクスプレスは、ヨーロッパ側の旧市街をマルマラ海に沿って走り、旧市街を回り込むようにして、金角湾の入り口にあるシルケジ駅へと到着します。
 シルケジに到着すると、まず宿探しでした。一応、ホテルのクーポンをもっていた私は、使用できるPホテル — ここはイスタンブルでも有名な老舗でありまして、あの「オリエント急行殺人事件」のアガサ・クリスティやトルコの初代大統領である「国父」ケマル・アタチュルクも泊ったというホテルでありました。つまり、クーポンでもなければ、手が出ないホテルです — へと、タクシーで向かうことにしました。
 タクシーに乗ると、あごひげを生やし、トルコの民話「ナスレティン・ホジャ」のホジャのような風貌の老人でありました。一見、人の良さそうな老人でありましたが、酒臭い。ホテルの名前を告げると、前金で750円請求します。最初なので、どのくらいの距離かわからない — 簡単な地図はありますが、この時点では距離感がつかめない — ので、しょうがなく払います。
 タクシーが走ると、地図とつき合わせながら、距離をつかみます。近い。旧市街と新市街とを結ぶ、イスタンブルの象徴とも言えるガラタ橋(トランプの「ブリッジ」はこの橋だそうです)を渡り、交通量が多い街なのでゆっくりと走るのですが、あっという間に着きます。これで750円は高い。とはいえ、最初は授業料です。
 Pホテルに着きます。クーポンを見せます。すると、なぜか使えないと言う。すったもんだがありましたが、やっぱりダメ。クーポンなしではここは1泊 1万円はする。しょうがないので、Pホテルのボーイが紹介してくれた向かいにある Kホテルに泊まることにしました。ここは 1 泊 1000 円でした。何とこのホテル、日当たりは最悪でしたが、ちゃんとエレベーターもあり、トイレは水洗、バスにちゃんとお湯が出ます。モスクワ以来久々にシャワーを浴びることができました。フロントのオバちゃんも愛想がよく、居心地がよいところでした。ただ、オバちゃんが以前泊った日本人旅行者に貰ったらしい使い捨てカイロをどう使うのか聞いてきたときは、それを開封せずに、しかも英語で説明しなければならなかったので大変でしたが。
 さて、このイスタンブルのタクシーですが、運転手はほぼ誰でも英語が通じ、ふつうはきちんとメーターが付いていて(もう一度 Kホテルからシルケジ付近までメーター付きで乗ったところ、250 円ほどでした)、非常に乗りやすいのですが、何せ、飛ばす、飛ばす、飛ばすのです。この最初の運転手は飲酒運転であるにもかかわらず、おそらく私が乗った中では最初で最後の安全運転でした。空港と市街地を結ぶハイウェイ(というほどは整備されていない。穴ぼこもよく開いてる)だけでなく、市街地の一方通行の狭い道を逆走するときでも、また前に横断している人がいようとも、アクセル全開で突っ込んでいきます。運転が粗いと言われる大阪人も、名古屋人でも太刀打ちできません。バンコックのタクシーよりはおとなしかったかもしれませんが…。そう考えれば、英語が通じるだけイスタンブルのタクシーの方がマシですが、現在はどうなのかはわかりません。
 私はこの Kホテルに 4 日間滞在したのち、当時、日本人バックパッカーのたまり場として有名だった Mホテルへと移りました。ここは 1 泊 300 円でした。トイレ、バスは共同のドミトリー、バスのお湯は出るかどうかは運と要領で決まるというところでした。ここは自炊もできるところで、謎の日本人のオジサン集団がひと月以上滞在していて、毎晩、号令をかけながら、料理を作っていました。この人たちはいったい何者なのでしょうか。他の日本人旅行者も、イランに行ってきてこれからヨーロッパへ行く人たち、ヨーロッパを回ってこれからイランに行く年齢不詳の女性、テヘランに半年住んでいた学生、ホテルにやはり数カ月逗留しているけどホテルにもあまり帰ってこない(と聞いただけで実物には会ってはいない)人など、強者ぞろいでした。何せ、当時イランはイラクと戦争中で、テヘラン市街にはイラクのミサイルが連日撃ち込まれていた時期です。とくにイランを旅行してきた人たち(何人もいました)はイラン国内でも何度か出会った人たち同士らしく、再会するなり、「よく、(イランを)生きて出られましたね」と互いの無事を喜んでいましたし、テヘランに住んでいた学生の半年間の話はもっと凄まじいものでした(でも彼はことあるごとに「イランに帰りたい」と言っていましたが)。旅行者の多くはイスタンブルへ到着すると、アジアから来た旅行者は緊張感が解け、ヨーロッパから来た旅行者は物価の余りの安さにずるずると居着いてしまうようです。そして、私もその一人でした。本当は、ここからさらにアテネかローマでも行くかと思っていたのですが(せめてユーゴスラビアは行くべきでした)、居心地の良さもあり、昼前に起きてはホテルのロビーのテレビでボケーとフトボル中継を見(ただ、当時のトルコのテレビは番組が少なく、突然ホワイトノイズが轟音を響かせることが多々あり、なかなか居眠りはできませんでしたが)、そのまま夜は飲んだくれるという、旅行者の自覚に欠けた生活を送るはめになりました。そのような強者の中でもソ連に行った人間は珍しいらしく、私はいろいろと事情を聞かれました。
 しかし、こんな時代はもうイスタンブルにもないようです。このあと、イラクのサダム・フセインは、クウェートへ侵攻し、さらに湾岸戦争へと発展しました。これ以降、イスタンブルのホテルの値段は急騰し、この 5年後にはKホテルぐらいの中級ホテルでも1 泊 40ドルなら格安という状況になります。日本人も裕福になり Mホテルのような超格安ホテルに泊まる日本人もほとんどいなくなったようです。とくに、私が最初に訪れたのが 1988年、2回目に訪れたのが 1993年だった(さらにもう1回行っています)のですが、現地に住んでいる人に聞いた話では、この5年間のイスタンブルの変動はかなり大きかったようです。「いい頃に来ましたね」とその人は私に言いました。
 今、イスタンブルは世界遺産に登録され、日本からも相当の観光客が訪れるようです。今も当然魅力のある街なのですが、最初に行ったときに感じたあの独特の雰囲気、猥雑さというと少し不適切なのかもしれませんが、モダンからポストモダンへと脱皮する直前の数多くのものが錯綜した雰囲気はもう味わえないのかもしれません。

開成ハイスクール 片岡尚樹