ダニューブ・エクスプレス(その 6)

2012 年 1 月 31 日

 ソフィア駅で私たちを待っているはずの列車の姿は、プラットホームにはありませんでした。同じプラットホームに戻ってきたはずです。いくらソフィア駅が大きいとはいえ、また、いくら私が酔っぱらっていたとはいえ、それくらいの分別はあるはずです。でも、列車の姿はありません。まさか、置いてきぼりにされたのか。もしそうならば、どうすればよいのか。荷物は、ほんのわずかしか持って出てきていません。トランクも列車の中です。パスポートや所持金は全部持って出たので、帰国もできない、身動きもとれないという最悪の事態ではありませんが、もし、列車が行ってしまったのならば、かなり危機的な事態です。以前、ブハラ(当時はソビエト連邦の、現在はウズベキスタンの都市)のホテルに着いて、街を高いところから見ようと、屋上にエレベーターで上がったところ、街を眺めることはできず、がっかりして下へ降りようと思ったら、エレベーターを呼び出すボタンが壊れていて、閉じ込められたときのことを思い出しました。もし、私が同室のイラク人留学生たちと別行動を取り、単独でソフィアの街に繰り出していたならば、相当なパニックに陥っていたことでしょう。でも、頼みの彼らも困惑した顔をしていました。
 しかし、彼らには語学力があります。ちょうど、プラットホームに停車していた通勤列車の車掌に話しかけます。しばらく会話を交わしたのちに、その列車に乗り込みました。彼らは一体何をしようとしているのか、お前も乗れと彼らが言うので、私も乗り込みます。でも、さっぱり話が見えません。
 すぐに列車は発車し、唯一明るかったソフィア駅を出発し、暗闇の中へと走り出します。意外なことに車内は日本の通勤列車と変わらない明るさでした。モスクワの地下鉄が駅の明るさとは対照的に車内が薄暗く、ときには真っ暗になるのと比べれば、信じられないくらいです。
 乗ったのはほんの数分でした。次に停車したのは、満足なプラットホームもない薄暗い場所でした。留学生たちはそこで車掌にもう一度何かを確かめると、私にも促し列車を降りました。下車すると列車は去って行き、暗闇に目が慣れてくると、ようやくどこにいるのかわかってきました。操車場でした。数百メートル向こうに明かりが見え、多くの列車が係留されているのが見えました。どうやら、私たちが乗っていたダニューブ・エクスプレスの車両もこの中のどこかに係留されているようです。
 私たちは線路に躓かないよう薄暗い操車場の中を歩いていき(といっても私は後を付いていっただけですが)、今思えばどうやって見つけたのだろうとは思うのですが、ようやく自分たちの車両を見つけました。外から見る限り車内の灯りは点いていませんでしたが、ドアをたたくとモスクワからずっと一緒だった車掌らしき人物が出てきました。私たちは暗闇の車内に乗り込み、そのまま自分たちのコンパートメントらしき場所に戻りました。何せ、完全に車内は暗闇だったので、本当にここが自分の乗るべき場所なのか確信は持てませんでした。もし違っていたらどうしようと思いつつ、アルコールの血中濃度もそれなりに高まっていた私は、不安と緊張よりも強い睡魔に屈し、そのまま眠ってしまいました。神経が図太いのか、根が単純なのか、とにかく無謀なことをしたものです。
 酔っていたこともあり、記憶が正確ではないのですが、今になって考えてみれば、5時間も停車しているのだから、ずっとプラットホームに列車が停車しているわけがありません。ダニューブ・エクスプレスとして、モスクワからイスタンブルまで走るワゴンは私たちの1両だけです。発車時刻が近づけば、他の場所から着く列車やソフィア始発の列車と連結されて、駅のホームに現れるでしょう。それまではどこかに留置されているに違いありません。だからと言って、単独ではないとはいえ操車場に行ってそこで列車に乗り込むというのはあまりにも無謀でした。よく、事故に遭わずに済んだものだと本当に思います(この日の3日前に中国で「上海列車事故」が発生しており、日本から修学旅行に行っていた多くの高校生が犠牲になったことを帰国後に知りました)。それにしても、どうやって暗闇の操車場の中で列車を見つけたのか、私が見つけたわけではなく、今となっては確かめるすべもありません。ひょっとすると奇跡的に見つけられたのではないか、ただ運がよかっただけなのかとも思われます。

 ということで、再びソフィア駅に列車が入り、改めてソフィアを出発したことを見届けることもなく、私は爆睡状態にありました。次に目を覚ましたのは、コンパートメントのドアを激しく叩く音でした。寝ぼけていたので、それが何時ごろのことなのか、外ではすでに夜が明けていたのかさえ、全く記憶にないのですが、それはブルガリアの出国審査でした。ただ、パスポートを渡し、返されたことだけを覚えています。他には何も聞かれませんでした。ソ連の出国、ルーマニアの入国、出国、ブルガリアの入国、出国とどんどん審査が甘くなってきました。あとで見ると、パスポートに貼られたブルガリアの通過ビザに、ルーセでの入国時と同様、出国を示すスタンプが押されていました。ただ、そのスタンプがあまりにも雑に押されているために、出国地の地名が何なのか判読できないものでした。
 それからまた列車は走り出しました。まだ寝足りなかったので、そのあともひたすら寝ていたのですが、やたら高速で走っていたのを覚えています。こんなにスピードが出せるのだと少し感心しました。この地域はブルガリア、トルコ、ギリシャの国境が入り組んでいるあたりなので、飛ばしていたのかもしれません。ブルガリアを出国してかなりの時間が経った後(といっても寝ていただけでしたが)、列車は停車します。もうそこはトルコ領のカピクレという駅でした。
 カピクレでのトルコの入国審査は、車内ではなく駅舎で行われました。ソ連、ルーマニア、ブルガリアの出入国審査がすべて車内でなされていたのに対して、トルコは仰々しいのか、意外と入国審査が厳しいのかと、恐る恐る列車を出ると、まず驚いたのは青い空、まぶしい太陽でした。3月のソ連では雲に覆われた太陽しか拝むことはなく、また、ダニューブ・エクスプレスから外に出たのも、雨の中のキエフの数十秒と夜のソフィアだけでした。南に来たのだ、そして春になりつつあるのだという実感。これに、安全は確保されているとはいえ、出入国についても市内での行動も厳しく管理されていた共産主義圏から資本主義圏に帰ってきたということも重なって、大きな開放感を感じました。
 入国審査を受けるために駅舎に入ります。いくつかの窓口に人が並んでいます。駅舎での入国審査は初めてなので、すこし緊張します。私の窓口で対応したのは女性の審査官でした。彼女にパスポートを渡し、写真と照合するだろうと思い、メガネをはずしておきます。が、彼女はパスポートをめくり、キーボードに何かを入力すると、こちらを全く見ることなく大きく振りかぶると、入国スタンプを豪快にパスポートに打ち込む(「押す」というより、「打ち込む」と言った方が雰囲気が伝わります)と、そのままパスポートをつっ返しました。私の方は全く見ず、写真と照合するということは全くありませんでした。このときほど日本のパスポートを世界がどう見ているのかを感じたことはありません。そして、トルコが「親日国」なのだということも、つくづく実感しました。この後も私は、トルコを2回訪問しましたが、やはり入国時に写真照合を受けた記憶がありません。そして、いつも出入国のスタンプは、豪快に打ち込まれました。この音は耳にこびりついています。

センター試験を終えて

2012 年 1 月 23 日

 みなさんこんにちは。開成ハイスクール草津教室の山本博貴です。このブログを書いている今、センター試験を終えた高3生が結果の報告に来てくれています。本年度のセンター試験は、文系教科は地理Bを除き例年並み、理系教科の一部(数学II+B)などで難化していたようです。
 各々の得点を見ていて、改めて思うのは、いち早く受験勉強に取り組み出した生徒ほど得点が安定している、ということです。とりわけ英語や地歴・公民などは、ある程度までは知識がものをいう科目ですので、学習を開始する時期の早さが結果にダイレクトに影響している、という印象を受けます。
 高3生は、これから私立対策・国公立対策と大忙しの日々が待っていますが、とにかく体を壊さぬよう、やり遂げて欲しいものです。
 また、高1・2生の諸君は、先輩たちの背中を見て、今から受験に対する意識を高めていってもらいたいと思います。

開成ハイスクール英語科 山本博貴

「学び」再考

2012 年 1 月 16 日

 こんにちは、開成ハイスクール英語科の石川統康です。

 かつて、大学へ進学できる人間がごく限られていた時代、彼らはいわば国の将来を担うエリートとして、その強い自覚・責任感が学問に精進する動機づけとなっていました。
 今日、大学の門戸は大きく広げられ、大学生にそうした自覚は希薄になっているように思われます。目標の大学に合格した学生が、入学後、ほとんど勉強をしなくなり、学問を身につけることに対する意欲や関心が、受験が終わるとなくなってしまうという現象は確かにあるようです。
 一方、大学側も、急速に進む国際化・情報化社会の中でそれに対応すべく、学部の新設やカリキュラムの改変を試みようとするのですが、旧来の学問体系をベースにこれまで経歴をつんできた大学人たちの腰は重く、急速な時代の流れについていくことができずに、まだ模索の段階にとどまっているのが現状のようです。
 来るべき時代は、これまでの価値体系がことごとく崩壊し、従来の、既成の概念がまったく通用しなくなる、そんな時代となるでしょう。良い意味でも悪い意味でもまったく新しい未知の世界に立ち向かっていかねばなりません。これから大学生になる諸君は、そうした世界の中で新たな社会を構築していく、重大な責務を背負っているのです。そこにこそ、「知識」「学問」を身につける意味・目的を見出すべきなのです。
 そしてその第一歩として、今ある外の世界に目を開かねばなりません。それは、周囲の物事に対して、どんなことにも好奇心を持つことです。好奇心は「勉強の発電機」です。勉強へと自らを突き動かす、内なる動力です。また、好奇心を向ける対象は、どんなものにも見出すことができます。たとえばテレビなども、格好の道具となり得ます。テレビから流れる情報に、好奇心の材料はいくらでも見つけることができるはずです。
 世の中の動きを知ることなしに、大学の講義で知識だけを詰め込んでも、それは単なる学問上の空論に終わってしまうばかりで、「学ぶこと」の本来の意義・目的をそこから見出すことなどできないでしょう。
 何のための「学問」なのか。それは好奇心を持ち、広げていくことによって理解でき、また「学ぶこと」の過程で、好奇心の芽は育まれていくものなのです。

英語

2012 年 1 月 10 日

 こんにちは、開成ハイスクール英語科の石川統康です。
「英語」は、諸君にとっては「学習すべき科目」「受験科目」の1つですが、当然のことながら、そもそもは1つの言語であり、国際的なコミュニケーションツールです。ところが、科目としての英語に日々たずさわっていると、その当たり前のことを、つい忘れてしまうものですね。
私が最初に英語に遭遇したのは、小学校3年生の時でした。めだかの水槽にえさを入れていると、お茶の間のテレビから突然流れてきた、圧倒的な破壊力を持つ音楽に、全身を射抜かれてしまったのです。アメリカの、あるハードロックバンドの初来日公演を、NHKが放映していたのでした。急いでラジカセをテレビの前に置き、録音スイッチをON。以降、そのカセットテープを、文字通り擦り切れるまで何度も繰り返し聞いたものです。まるで一滴の水を希求する砂漠の放浪者のように…。
 この衝撃的な音楽に乗せて、彼らが何を歌っているのか、どうしても理解したかったのです。彼らがシャウトする1語1語を聞き取り、カタカナに置き換え、使い方もままならない「英和辞書」と毎日何時間も格闘し、おぼろげながら掴めた内容の向こう側に、アメリカそのものを、畏怖と憧憬をもって垣間見たのでした。そして、英語は私にとって、アメリカを知り、感じ、自分のものとするための、まさに生命線となったのです。
物や情報が希薄であれば、かえってそれを求める欲動が強くなるものです。小学生の私が英語に強い関心を向け始めたのも、そのせいかもしれません。
今やアメリカとその文化は、手に取るように私たちの日常に浸透しているかのように思われます。だからこそかえって、英語という言語を通じて、ナマのアメリカに触れたいという欲動が生じ難いのかもしれません。
最近、インターネットを利用して、CDをアメリカに直接注文しています。日本で購入する場合と比べ、単価が非常に安く、日本では入手できないものが簡単に手に入るので、非常に重宝しています。中でも、アメリカ人が個人で中古CDを出品している場合は、物によっては1枚2.00ドルなどといったものもあります。
 その、個人出品の品が手元に届き、開封するときが何より楽しみです。ゲイリーの精一杯のお礼の手紙や、ピーターの「おまえ、何でこんなCDを聴くんだ?変わった奴だなあ。俺も変わり者だとよく言われるけれどな」といったメッセージや、ナンシーが心づくしで同封してくれた、わけのわからないチョコレート菓子がベトベトに変質していたり、とにかくいちいち驚き、笑わせてくれます。そして、私が彼ら(海外)を最も身近に感じるのは、送ってくれたCDのケースにべったり付いている指紋や、ライナーノーツの紙についているコーヒーのしみなどといった、彼らの生身の生活を生々しく喚起させてくれる物証に触れたときです。こんな形で海外を体験することもできるものかと、改めて感心しています。
当たり前のようですが、こうした「海外体験」のツールとなるのが、まさに英語なのです。
英語を通じて眺めるアメリカは、マスコミに流布している卑近なイメージをはるかに超えて、もっとリアルで、もっと大きく、そしてもっと人間的かもしれません。

センター試験まであとわずか

2011 年 12 月 26 日

 1月14日・15日に実施させるセンター試験まで、いよいよ残りわずかの日数となりました。現在、私は担当している高3生たちと、センター試験直前の最後の個人面談を実施しています。
 面談の中では、センター試験の目標点・私大入試の出願先など具体的な話をしています。個人面談をしていて強く思うことは、「何よりもメンタル面が大切である」ということです。残りの数週間をどう過ごすかで、センター試験の結果は大きく変わります。実際に、私が指導し、直前期に急激に成績が上がった生徒をたくさん見てきています。
 この時期に成績が上がる生徒の共通点は、これまでコツコツと勉強をしてきた生徒だということです。成績があがる理由を、表を使って説明しましょう。
 例えば、配点が5点の問題が4問あったとします。4問の問題には、それぞれ3つのポイントがあり、問題に正解するためには3つのポイントをすべて知っておかねばならないとしましょう。

 まずは、図1を見てください。これはまだ、本格的に受験勉強を始めていないので、残念ながらすべての問題のすべてのポイントがわかっていません。もちろん、この状態ではテストの結果は0点です。

 次に、図2を見てください。受験勉強がかなり進み、○が増えました、しかし第1問ではポイント①がわかっていないので、得点は0点です。また、第2問~第4問でも、わかっていないポイントがあるために、結局テストの得点は0点です。

 さて、冬に得点が上がる理由がわかりましたか。つまり、図1⇒図2の段階では、勉強した結果がテストの結果(得点)には表れませんが、ある一定の時期からは、テストの結果に学習の効果が表れていきます(図3)。

 図1と図2を比較すると、図2の方がよく勉強しているわけですが、テストの結果はいずれも0点です。しかし図2の段階では、もう少し勉強をがんばると一気に満点を取ることが可能です。
 さあ、模試の結果が悪いと嘆く前に、これまでの自分の勉強を信じて、ラストスパートをかけてください。これまでに取ったことのないような点数が、本番で取れるかもしれないですよ!

開成ハイスクール数学科 前田 佳邦

生徒面談

2011 年 12 月 19 日

 定期テスト期間が終わると、私たちは生徒面談を実施します。話をするのは、成績や進路、勉強方法についてはもちろん、学校や友人、家庭のことなど様々です。
 生徒は一人一人、必ず素敵な一面を持ち合わせています。それは、色々と話をしていく中で必ず発見できます。ほとんどの生徒が、自分ではその一面に気づいていませんが…。
中には、中学生のときから私が担当している生徒もいます。あんなに小さかった生徒が、今では私の身長を越してバスケ部のキャプテンをしていたり、あんなに幼い声だった生徒が、声変わりをして、私よりも低い声で話しかけてきます。
 彼らはみな、昔と変わりなく本音で話をしてくれます。話の途中で涙を浮かべたりする生徒などもいます。思春期は、私たちが思っている以上に茨の道のようです。面談は、生徒が大人になっていく過程を垣間見る場でもあります。
 確かに、思春期には精神的につらいことがたくさんあります。しかし、それを乗り越えた生徒は、本当の意味で「強い」「優しい」人間になれるのだと私は思っています。

 つらくなったらいつでも声をかけて下さい。私自身、大した人間ではありませんが、生徒に「元気」「やる気」を与えるのが使命であると思っています。

 大道@西田辺教室

「べし」の判別

2011 年 12 月 12 日

 11月から、開成ハイスクール西田辺教室にて、高校2年生を対象とした「古典」の講座が開講されました。大学入試に向けた古典対策のスタートということもあり、非常にたくさんの生徒たちが受講しています。高2生にとって、古典というとまずは「文法」という意識が強いらしく、文法についての様々な質問を受けます。
 今回は、よくある質問のうちの1つ、「べし」について述べたいと思います。
 そもそも「べし」の語源は、「宜(うべ)し」の音変化とする説が有力で、上代から現代に至るまで広く用いられています。「当然または必然的にそうなること」もしくは「推量する」の意が原義で、そこからいくつかの意味に分化したと考えられています。また、中世以降「べし」の接続は複雑化し、上一段・下一段・上二段・下二段活用には、イ列音・エ列音に伴うものもみられ、その他、様々な背景や諸説を多々持つ助動詞です。ただ、受験生にとっては「意味用法の判別」が大きく課題となるでしょう。
 「べし」の意味用法は、一般に「推量・意志・可能・当然・命令・適当」の6つです(このほかに予定や義務を用法に加えることもあります)。では、どのようにこの6つの意味を使い分けるのでしょう。
これを明確に線引きするのは、なかなか難しい問題です。というのは、「べし」にはグレーゾーンが存在するからです。例えば、「適当(~するのがよい)」と「当然(~すべき)」はどこで線引きができるのでしょう。まずはこの2つの使い分けをイメージするために、皆さんの古典の先生を思い浮かべてみてください。先生が「君は、もっと古典を勉強すべきだ」と言ったとします。この時の「べき」は、「適当(した方がよい)」or「当然(すべき)」のどちらでしょうか?
 その先生がとても穏やかな先生だったとします。その場合、「勉強すべきだ」の「べき」にはそれほど強制力はなく、「した方がいいよ(適当)」が皆さんの解釈になるでしょう。一方、それがとても厳しい先生だったとします。その先生に「勉強すべきだ」と言われたらどうでしょう。きっと皆さんは「絶対すべきだ(当然[命令])」と解釈しますよね。つまり、同じ使い方であっても解釈は個人によって変わり、また、作者の意図した用法と、読み手の用法が合致するとも限りません。そもそも「適当(した方がよい)」or「当然(すべき)[命令]」は強弱の問題ですから、どこまでが「適当」で、どこから「当然」に変わるのかという明確な区別はできません。
 従って、文中に「べし」が出てくる度に、いちいち悩んでいては読解が進みません。そこで、ある程度大まかな用法の塊を頭にインプットすると読みやすくなります。
 初心者向けの「べし」用法区分の1例を挙げると、

 ①自分(一人称)の気持ちを表す「べし」 例)意志
 ②相手(二人称)に物事を勧める「べし」 例)勧誘・当然・命令
 ③第三者(三人称)を推測する「べし」  例)推量・当然

 このように、人称による3つの用法区分は読解の大きな目安となります。几帳面に6つの意味を考えていくのも場合によっては大切ですが、「べし」のベクトルがどこに向いているのかというような、手際のよい読解技術も必要です。助動詞は、細かい意味用法や文法知識と同時に、要領よく大意の読解に活かしていくことも大切なのです。

開成ハイスクール国語科 重留英明

楽しい高校生活とは…?

2011 年 12 月 5 日

 高校生と話をしていると、受験勉強をすることは、つまり楽しい高校生活を犠牲にすることだと思っている人が多いように思われます。
 そう考えるのは、実にもったいないです!大学受験は一生涯で一度しかないもので、自分を大きく成長させるチャンスなのです。
ところで、人間が大きな喜びを感じる瞬間は、どんな時だと思いますか?それは、自分が壁を乗り越えて成長する時です。みなさんにも経験はないでしょうか?何回も失敗しながら初めて逆上がりができた時、朝晩一生懸命練習して部活でレギュラーになれた時、勇気を振り絞って好きな子に告白して、思いが届いた時…。その瞬間の喜びは、強く心に残るものです。そして、乗り越える壁が大きければ大きいほど、喜びも大きなものとなります。
 大学受験は高校生にとって、おそらく今までの数多くの壁の中で、最も大きなものでしょう。なぜなら、受験勉強をしていると、必ず次のような悩みに何度もさいなまれるからです。「なんで勉強しているのか分からない」「将来何がしたいのか分からない」「頑張っているのに成績が伸びない」「受験勉強がつらい、もうやめたい」。そのたびに自分と向き合って、なんとか顔を上げて前に進んでいかなければなりません。あきらめることは簡単ですが、続けることは本当に大変なことなのです。
 では、想像してみてください。辛く長い受験勉強を頑張り抜き、試験のプレッシャーにも負けず戦い抜いたあなたがいます。合格発表の日、あなたは大学へ向かいます。緊張と不安で何も考えられません。なんとか会場に到着しますが、今度は怖くてなかなか合格者の受験番号が載った掲示版に目を向けることができません。それでも思い切って自分の受験番号を探します。そして、あなたの受験番号を見つけます。その時、あなたが見る世界が変わります。今までの辛かった日々が、輝く宝石へと姿を変えます。
 大学受験は自分を成長させる、最高に贅沢な機会です。

開成ハイスクール英語科 津留天然

小さくて大きな励まし

2011 年 11 月 28 日

 みなさん、こんにちは。いよいよ冬の到来です。風邪をひいている人も多いようですが、みなさんは大丈夫でしょうか。特に高3生は、あと1ヶ月余りでセンター試験ですね。準備は万全でしょうか。もう本番モード、ぐずぐずしている暇はありません。また、高2生のみなさんも、まだ1年以上あると悠長に構えていてはいけません。今から1年先のことを見通して時間の使い方を計画立て、それに基づいて着実に準備を進めて行く必要があります。
 大学受験というと、思い出すことがあります。当時、私の家の近くには郵便局がなかったので、てくてくと30分くらいかけて、ひと山向こうの郵便局へ受験料や願書など一式を出しに行きました。もちろん、忘れているものはないか、何度もチェックして、万全の状態でした。しかし、郵便局でいろいろと手続きを済ませ、家へ帰ろうと郵便局の自動ドアを出ようとした時、受験料を一緒に送るのを忘れていたことに気付いたのです。その瞬間、「自分では万全だと思っていても、なかなかすべてが上手くはいかないものだ」などと、受験そのものがとても不安になってきました。ところがその帰り際に、嬉しいことがありました。受験料の送付を済ませ、今度こそ本当に帰る間際、郵便局の方たちが全員で「ありがとうございました」と声を掛けてくれました。まるで私を励ましてくれるように、とても温かく聞こえました。「がんばろう」と、素直に思いました。ほんの些細なことですが、私にとっては大切な思い出です。
 受験は時に、孤独な闘いになりますが、多くの人が、陰となり日向となって助けてくれているものです。だから、受験に厳然と立ち向かってください。そして、そのぶん大きく成長してください。合格したその時には、嬉しさと、感謝の気持ちでいっぱいになるでしょう。

数学科 村上 豊

ダニューブ・エクスプレス(その 5)

2011 年 11 月 21 日

前回9月20日からの続きです)

 ダニューブ川こと、ドナウ川を渡った列車は、南岸にある街ルーセに到着し、ブルガリアに入国しました。このルーセの駅、入国審査が終わってしまうと、まるで国境の駅という緊張感も賑やかさもありません。国際列車が到着しているプラットホームにはキオスク(売店)がポツンと一つあるだけで、他に列車もなく、乗客の姿もほとんど見あたらず、さらに駅員も物々しい警備の兵士もいませんし、売店の店員すらいません(これで商売になるのか?)。プラットホームにいるのはイラク人留学生の二人と私だけという状況でした。ひょっとすると、もう少し駅の中をうろつけば、人がいたのかもしれませんが、停車時間がそれほどない私たちは、車内に戻ると発車です。
 私たちの最終目的地であるイスタンブルは、ルーセからみると南東の方角にありますが、列車はここから南西の方角に進路を定め、ブルガリアの首都ソフィアへと向かいます。車窓の風景は、ただひたすら森が続いていたなという記憶しかありません。今回、この文章を書く上で、古い記憶を必死に辿ってみたのですが、ここまでの、ソ連やルーマニア国内を走っていたときの車窓の風景がほとんど思い出せないことには、愕然としました。一体何を見ていたのだろうか、と。あまりに単調なので記憶にないのか、それとも昼寝をしていたから見ていないのか、逆に緊張状態にあったからか、いずれにしても、もう少し真剣に見ておくべきだったと思います。そういえば、ダニューブに乗る前に乗ったシベリア鉄道も、車窓の風景は、バイカル湖が見えるときを除くと、ひたすらシベリアの大森林地帯を走るか、見渡す限り真っ白の平原を走るか、その組み合わせだけだったのですが、偶然乗り合わせた宇都宮大学の林学科の学生(彼らはゼミの研修旅行で、ソ連のノボシビルスクにある発電所を見学すると言っていましたが、当時のソ連でそんなことが許されるのかと、印象深く思ったものです)が、「皆さんはただ森が続くだけと思ってらっしゃるでしょうが、私たちが見ると徐々に植生が変わっていることがわかるので面白いのですよ」と語っていたのを思い出します。わかる人が見れば、無知な人間とは違うものが見えてくるのでしょう。そういう点では私の目は節穴だったのかもしれません。
 ひたすらブルガリアの森の中を列車は走り、どんよりとした空は、いつの間にか暗くなりました。ソフィア到着予定は、時刻表によればブルガリア時間の 17 時頃だったのですが、定刻からはかなり遅れたままのダニューブ・エクスプレス、まだまだ着きません。ようやく、列車の窓からソフィア駅のプラットホームに書かれているアルファベットの “SOFIA”とキリル文字で書かれた “София”が見えたのは、19時半ごろのことでした。
 実は、「ダニューブ・エクスプレス」の名称がついている列車としては、このソフィアが終着駅であり(そのため、起点であるモスクワのキエフ駅の案内表示でも、私の乗る列車は「ソフィア行き」と表示されていました)、私の乗っているワゴンだけがこのあとは別の列車に接続されて、イスタンブルまで向かうことになっていました。イスタンブル行き列車のソフィア出発時刻は日付が変わった午前0時40分であり、停車時間は定刻通りならば7時間。2時間ほど遅れて到着してもまだ5時間はありました。そのため、車掌が「ソフィアでどうするのか」と聞いてきました。つまり、このまま車内で出発を待つのか、それともソフィア市街に出かけるのか、ということです。当然ですが、イラク人留学生たちは駅の外へ行くと言いました。私も彼らについて行くことにしました。何せ彼らに食べさせてもらってばかりです。ここらあたりでお返ししないといけません。
 ソフィアに到着し、久々に列車をまともに降りました。ソフィア駅の構内は、モスクワのキエフ駅よりもブクレシュチ駅よりも明るかったことを記憶しています。数多くのプラットホームが並び、ソ連では地下鉄の駅でしか目にすることがなかったエスカレーターまでありました。高架はありませんが、地下道までありました。駅の規模は、日本だとJR天王寺駅から駅ビルと改札前にあるコンコースをすべて取り去ったぐらいの規模でしょうか。さすが一国の首都の玄関口だと感心していると、駅前には地下街がありました。モスクワには、地下鉄はありましたし、非常に長いエスカレーターを降りて行きつくその駅は、いざ核戦争が起これば核シェルターに転用する予定だったこともあり、それはそれは過剰なまでの装飾を施された大規模なもの(地下鉄の駅だけの絵葉書まで観光客用に売られているくらいです)でしたが、地下街というものがあった記憶はありません。しかし、まだ時刻は20時にはなっていないにもかかわらず、期待の地下街は真っ暗でした。所々で裸電球がむなしく通路を照らすだけでした。私たちは、地上に上がると、電気がついているところを探しました。彼らにおごるためには、私はキャッシュをあまり持っていなかったので、トラベラーズ・チェックを両替する必要もありました。しかし、薄暗い電気がついていると思って行ってみると、それは営業していない商店が商品を薄暗く陳列しているだけで、しかもなぜかどの店も陳列してあるのは、当時の私にとっても懐かしく思うほどの SONY のカセットテープ CHF(旧モデルのテープで、その10年ほど前まで日本国内で流通していたはずですが、当時はもう目にすることはなかったはずです)が数本だけという状態でした。人通りもない街を歩きつつ、私はその数週間前まで滞在していたソ連の都市を思い出していました。かつてはティムール帝国の首都だったサマルカンドや、現在はトルクメニスタンの首都になっているアシガバードの街も、夜8時、9時にホテルを抜け出して歩いてもほとんど人がいるということはありませんでした。ほんの数日だけ、しかも限定された箇所だけを行き来しただけで、多くを語ることはもちろんできませんが、モノについては当時の東側諸国は明らかに不足していました。でも、治安がよかったということも同時に言えます。
 やむを得ず、両替もできずにソフィアの駅前に戻ると、カフェが一軒ありました。屋外でしたから結構肌寒いのですが、ここしか営業していません。ここで食事をすることにしました。留学生の2人はワインを飲み始め、私にも勧めます。彼らはムスリムなのにいいのかと思いつつ、私も相伴します。彼らはガバガバ飲みます。水のように飲みます。私もそんなに弱くはない方だとは思いますが、それは日本国内の基準の話です。並みの日本人の肝臓のアルコール処理能力では、彼らの肝臓と太刀打ちすることはできません。抑えて飲みましたが、私は泥酔とまではいかないまでも、ほろ酔い+αぐらいにはなっていました。
私のなけなしの米ドル紙幣を彼らに出し、店を出ました。そして、緊張状態が解けてふらふらになり、もう寝るぞと思いつつ戻った駅のプラットホームで待っているはずの列車の姿はありませんでした。

片岡尚樹