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開成教育グループ


ダニューブ・エクスプレス(その 5)

前回9月20日からの続きです)

 ダニューブ川こと、ドナウ川を渡った列車は、南岸にある街ルーセに到着し、ブルガリアに入国しました。このルーセの駅、入国審査が終わってしまうと、まるで国境の駅という緊張感も賑やかさもありません。国際列車が到着しているプラットホームにはキオスク(売店)がポツンと一つあるだけで、他に列車もなく、乗客の姿もほとんど見あたらず、さらに駅員も物々しい警備の兵士もいませんし、売店の店員すらいません(これで商売になるのか?)。プラットホームにいるのはイラク人留学生の二人と私だけという状況でした。ひょっとすると、もう少し駅の中をうろつけば、人がいたのかもしれませんが、停車時間がそれほどない私たちは、車内に戻ると発車です。
 私たちの最終目的地であるイスタンブルは、ルーセからみると南東の方角にありますが、列車はここから南西の方角に進路を定め、ブルガリアの首都ソフィアへと向かいます。車窓の風景は、ただひたすら森が続いていたなという記憶しかありません。今回、この文章を書く上で、古い記憶を必死に辿ってみたのですが、ここまでの、ソ連やルーマニア国内を走っていたときの車窓の風景がほとんど思い出せないことには、愕然としました。一体何を見ていたのだろうか、と。あまりに単調なので記憶にないのか、それとも昼寝をしていたから見ていないのか、逆に緊張状態にあったからか、いずれにしても、もう少し真剣に見ておくべきだったと思います。そういえば、ダニューブに乗る前に乗ったシベリア鉄道も、車窓の風景は、バイカル湖が見えるときを除くと、ひたすらシベリアの大森林地帯を走るか、見渡す限り真っ白の平原を走るか、その組み合わせだけだったのですが、偶然乗り合わせた宇都宮大学の林学科の学生(彼らはゼミの研修旅行で、ソ連のノボシビルスクにある発電所を見学すると言っていましたが、当時のソ連でそんなことが許されるのかと、印象深く思ったものです)が、「皆さんはただ森が続くだけと思ってらっしゃるでしょうが、私たちが見ると徐々に植生が変わっていることがわかるので面白いのですよ」と語っていたのを思い出します。わかる人が見れば、無知な人間とは違うものが見えてくるのでしょう。そういう点では私の目は節穴だったのかもしれません。
 ひたすらブルガリアの森の中を列車は走り、どんよりとした空は、いつの間にか暗くなりました。ソフィア到着予定は、時刻表によればブルガリア時間の 17 時頃だったのですが、定刻からはかなり遅れたままのダニューブ・エクスプレス、まだまだ着きません。ようやく、列車の窓からソフィア駅のプラットホームに書かれているアルファベットの “SOFIA”とキリル文字で書かれた “София”が見えたのは、19時半ごろのことでした。
 実は、「ダニューブ・エクスプレス」の名称がついている列車としては、このソフィアが終着駅であり(そのため、起点であるモスクワのキエフ駅の案内表示でも、私の乗る列車は「ソフィア行き」と表示されていました)、私の乗っているワゴンだけがこのあとは別の列車に接続されて、イスタンブルまで向かうことになっていました。イスタンブル行き列車のソフィア出発時刻は日付が変わった午前0時40分であり、停車時間は定刻通りならば7時間。2時間ほど遅れて到着してもまだ5時間はありました。そのため、車掌が「ソフィアでどうするのか」と聞いてきました。つまり、このまま車内で出発を待つのか、それともソフィア市街に出かけるのか、ということです。当然ですが、イラク人留学生たちは駅の外へ行くと言いました。私も彼らについて行くことにしました。何せ彼らに食べさせてもらってばかりです。ここらあたりでお返ししないといけません。
 ソフィアに到着し、久々に列車をまともに降りました。ソフィア駅の構内は、モスクワのキエフ駅よりもブクレシュチ駅よりも明るかったことを記憶しています。数多くのプラットホームが並び、ソ連では地下鉄の駅でしか目にすることがなかったエスカレーターまでありました。高架はありませんが、地下道までありました。駅の規模は、日本だとJR天王寺駅から駅ビルと改札前にあるコンコースをすべて取り去ったぐらいの規模でしょうか。さすが一国の首都の玄関口だと感心していると、駅前には地下街がありました。モスクワには、地下鉄はありましたし、非常に長いエスカレーターを降りて行きつくその駅は、いざ核戦争が起これば核シェルターに転用する予定だったこともあり、それはそれは過剰なまでの装飾を施された大規模なもの(地下鉄の駅だけの絵葉書まで観光客用に売られているくらいです)でしたが、地下街というものがあった記憶はありません。しかし、まだ時刻は20時にはなっていないにもかかわらず、期待の地下街は真っ暗でした。所々で裸電球がむなしく通路を照らすだけでした。私たちは、地上に上がると、電気がついているところを探しました。彼らにおごるためには、私はキャッシュをあまり持っていなかったので、トラベラーズ・チェックを両替する必要もありました。しかし、薄暗い電気がついていると思って行ってみると、それは営業していない商店が商品を薄暗く陳列しているだけで、しかもなぜかどの店も陳列してあるのは、当時の私にとっても懐かしく思うほどの SONY のカセットテープ CHF(旧モデルのテープで、その10年ほど前まで日本国内で流通していたはずですが、当時はもう目にすることはなかったはずです)が数本だけという状態でした。人通りもない街を歩きつつ、私はその数週間前まで滞在していたソ連の都市を思い出していました。かつてはティムール帝国の首都だったサマルカンドや、現在はトルクメニスタンの首都になっているアシガバードの街も、夜8時、9時にホテルを抜け出して歩いてもほとんど人がいるということはありませんでした。ほんの数日だけ、しかも限定された箇所だけを行き来しただけで、多くを語ることはもちろんできませんが、モノについては当時の東側諸国は明らかに不足していました。でも、治安がよかったということも同時に言えます。
 やむを得ず、両替もできずにソフィアの駅前に戻ると、カフェが一軒ありました。屋外でしたから結構肌寒いのですが、ここしか営業していません。ここで食事をすることにしました。留学生の2人はワインを飲み始め、私にも勧めます。彼らはムスリムなのにいいのかと思いつつ、私も相伴します。彼らはガバガバ飲みます。水のように飲みます。私もそんなに弱くはない方だとは思いますが、それは日本国内の基準の話です。並みの日本人の肝臓のアルコール処理能力では、彼らの肝臓と太刀打ちすることはできません。抑えて飲みましたが、私は泥酔とまではいかないまでも、ほろ酔い+αぐらいにはなっていました。
私のなけなしの米ドル紙幣を彼らに出し、店を出ました。そして、緊張状態が解けてふらふらになり、もう寝るぞと思いつつ戻った駅のプラットホームで待っているはずの列車の姿はありませんでした。

片岡尚樹


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