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ダニューブ・エクスプレス(その 4)

前回5月16日からの続きです)

ダニューブ・エクスプレスの3日目の朝はルーマニア国内を走ります。日本の旅行会社がくれた行程表では、この3日目の午後にはトルコ、イスタンブルまで到着予定でしたが、どう考えても、「ソ連国際列車時刻表」(英語版)が言うようにあと1日かかる方が正しいに決まってます。それによるとルーマニアを通過するのは約13時間です。モスクワからソ連・ルーマニア国境まで約25時間かかったことを思うとソ連という国がいかに広大なのかがうかがえます。
 同室のイラク人留学生たちはまだ寝ていました。彼らにいつもご馳走になるのは悪いと思い、ソ連持ち出し禁止のはずのルーブル紙幣がまだ少し残っているのを思い出し、私は一両後ろにある食堂車へと向かいました。シベリア鉄道のように長い車両に乗っていると、人の波をかきわけて、狭い通路を食堂車までたどり着くだけで小旅行。そこまで行くことを考えるだけでも億劫なこともあり、また、国際列車は列車の切り離しと連結が頻繁に行われるので、いつどこで列車が停車し、自分がいるべき車両が切り離されるかもわかりません。その点、食堂車がすぐに移動できる隣の車両というのはありがたいものです。
 数十秒後、私が知ったのは、自分の乗っている車両が、現時点で最後尾になっているという事実でした。私の乗っている車両の後ろにあったはずの食堂車は跡形もなく消えていました。帰国してから持ち帰った「ソ連国際列車時刻表」(英語版)を見ていて知ったのは、食堂車が連結されるのはどうやらソ連国内のみであり、ソ連を出国すると切り離されてしまうということでした。だから、事情を知る乗客は、みな食料持参で乗車するのでした。
 事情を知らない旅行者である私としては、どうしたものか考えました。一応、モスクワのホテルで出発直前にホテルのバイキングで、万一に備えて1日ぐらいは持つかという食料を確保していました。それが半分ぐらいはまだ残っていました。車掌に言えばサモワールで作った驚異的に熱いロシアンティーはいくらでも飲めるはずです。ということで、食料についての目途をつけて、コンパートメントへ戻ると、ルームメイトたちは起きだして朝食を始めようとしていました。そして、私の顔を見ると「どこへ行っていたのだ?早く食べろ」と言います。ということで、彼らのおかげで何とか空腹はしのげたのでした。本当に今でも思い出すたびにありがたく思います。
 そうこうしているうちに、ルーマニアの首都ブクレシュティに到着します。日本ではブカレストと呼ばれることが多いこの街ですが、この日はどんよりと曇った薄暗い日であったという記憶しかありません。ソ連以下社会主義陣営の諸国から多数のボイコットが出た1984年のロサンジェルス・オリンピックに東ヨーロッパ諸国の中で唯一参加するなど、社会主義陣営に属しつつもそのリーダーであるソ連からは距離を置き独自の路線を歩んでいることが、資本主義諸国から評価されていた国でしたので、私にはルーマニアは比較的抑圧されていない国だというイメージがありました。ただ、天候で感じたことなのかも知れませんが、それにしてもブクレシュティの街そのものも何かどんよりしていた印象を受けました。国内に滞在したのはわずか13時間、さらにそれは列車での旅、首都の停車時間もわずか15分でしたが、入国時のビザに対する甘さに反して、その後の荷物のチェックの意外な厳しさを含めて、何となく重苦しい空気を感じた国でした。現実に、当時のルーマニア国内の抑圧が周知されるようになるのは、私が国内を通過してから1年9カ月後の1989年末、ルーマニア革命が起こり、チャウシェスク大統領夫妻が処刑されてからのことになりますが…。
 ブクレシュティを出発してから1時間ほどでルーマニアを出国します。出国時はソ連とは異なり、パスポートのビザを確認するだけで出国スタンプが押されました。荷物のチェックは一切ありません。ただし、ロシア人の車掌だけはものすごくピリピリしていたことを覚えています。まだ国境で列車が停車する前ですら、トイレに行こうとすると「動くな」といって押さえつけられるほどでした。
 ルーマニアを出国すると国境を越えます。ルーマニアとブルガリアの国境は、この列車のネーミングの由来であるダニューブ川、すなわちドナウ川です。ドナウ川といえば、ヨハン・シュトラウスのワルツ『美しく青きドナウ』が有名です。列車名になるくらいです。私もドナウ川がどれくらい青いのかと期待していました。列車は鉄橋をゆっくりゆっくりと渡っていきます。そしてその本流はと言うと…。
雪解けの季節だったからかもしれません。ウィーンよりはるか下流で期待する方が愚かだと言われるかもしれません。そのことを割引いても…。それは何ともどす黒い激しい流れでした。当時の私は季節についてはあまり考えが及ばず、工業排水のせいだと思っていました。当時のソ連、東欧の工業化はすさまじく、さらに今とは違って環境にまるで優しくない工業化に加えて、自動車の排気ガスの規制など無いような状態でしたから、ソ連国内の都市の空気は3日市内を歩くだけで喉がやられるほどのひどいものでした(乾燥していたせいもありますが)。だから、ドナウのどす黒い水もそのせいかと思ったわけでした。ただただ、期待外れでありました。
 ドナウ川の対岸はブルガリアの都市、ルーセです。ビザについてはうるさいブルガリアです(実情が思った以上に厳しいことを知ったのはトルコに到着した後ですが)。しかし、意外とあっさり審査は終了しました。その後、ルーマニア入国時と同様、大きなオバちゃんがやってきました。また、ベッドに座って荷物検査か?今度こそベッドが潰れたら…などと思っていると、どこかの国の仏頂面のオバちゃんとは違ってにっこりとほほ笑み、私に対して一言 “Do you have Bulgarian money?”と尋ねただけでした。“No.” の一言で私は解放されました。意外とぬるい雰囲気です。ソ連からルーマニアへの越境は深夜だったのに対して、今度の越境は昼間だったからかもしれません。ということで、食糧危機を乗り越えた私は、何事もなくルーマニアを離れ3つ目の国ブルガリアへ入ります。

片岡尚樹


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