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開成教育グループ


英語

 こんにちは。
「英語」は、諸君にとっては「学習すべき科目」「受験科目」の1つですが、当然のことながら、そもそもは1つの言語であり、国際的なコミュニケーションツールです。ところが、科目としての英語に日々たずさわっていると、その当たり前のことを、つい忘れてしまうものですね。
私が最初に英語に遭遇したのは、小学校3年生の時でした。めだかの水槽にえさを入れていると、お茶の間のテレビから突然流れてきた、圧倒的な破壊力を持つ音楽に、全身を射抜かれてしまったのです。アメリカの、あるハードロックバンドの初来日公演を、NHKが放映していたのでした。急いでラジカセをテレビの前に置き、録音スイッチをON。以降、そのカセットテープを、文字通り擦り切れるまで何度も繰り返し聞いたものです。まるで一滴の水を希求する砂漠の放浪者のように…。
 この衝撃的な音楽に乗せて、彼らが何を歌っているのか、どうしても理解したかったのです。彼らがシャウトする1語1語を聞き取り、カタカナに置き換え、使い方もままならない「英和辞書」と毎日何時間も格闘し、おぼろげながら掴めた内容の向こう側に、アメリカそのものを、畏怖と憧憬をもって垣間見たのでした。そして、英語は私にとって、アメリカを知り、感じ、自分のものとするための、まさに生命線となったのです。
物や情報が希薄であれば、かえってそれを求める欲動が強くなるものです。小学生の私が英語に強い関心を向け始めたのも、そのせいかもしれません。
今やアメリカとその文化は、手に取るように私たちの日常に浸透しているかのように思われます。だからこそかえって、英語という言語を通じて、ナマのアメリカに触れたいという欲動が生じ難いのかもしれません。
最近、インターネットを利用して、CDをアメリカに直接注文しています。日本で購入する場合と比べ、単価が非常に安く、日本では入手できないものが簡単に手に入るので、非常に重宝しています。中でも、アメリカ人が個人で中古CDを出品している場合は、物によっては1枚2.00ドルなどといったものもあります。
 その、個人出品の品が手元に届き、開封するときが何より楽しみです。ゲイリーの精一杯のお礼の手紙や、ピーターの「おまえ、何でこんなCDを聴くんだ?変わった奴だなあ。俺も変わり者だとよく言われるけれどな」といったメッセージや、ナンシーが心づくしで同封してくれた、わけのわからないチョコレート菓子がベトベトに変質していたり、とにかくいちいち驚き、笑わせてくれます。そして、私が彼ら(海外)を最も身近に感じるのは、送ってくれたCDのケースにべったり付いている指紋や、ライナーノーツの紙についているコーヒーのしみなどといった、彼らの生身の生活を生々しく喚起させてくれる物証に触れたときです。こんな形で海外を体験することもできるものかと、改めて感心しています。
当たり前のようですが、こうした「海外体験」のツールとなるのが、まさに英語なのです。
英語を通じて眺めるアメリカは、マスコミに流布している卑近なイメージをはるかに超えて、もっとリアルで、もっと大きく、そしてもっと人間的かもしれません。


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