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2011 年 5 月 16 日 のアーカイブ

ダニューブ・エクスプレス(その 3)

2011 年 5 月 16 日 月曜日

ソ連国境の駅、ウンゲニー駅での停車時間は約 3 時間、すったもんだの出国審査を経て、ようやくソ連を出国できました。車内にあった国際列車時刻表によると、ウンゲニーはソ連時間で午後10時着で2時間停車の午前0時発になっているので、時刻は午前3時ごろだったと思います(このように遅れはどんどん蓄積されていきます)。列車は時速15キロぐらいの低速で進み、厳戒の国境を越えます。陸路で国境を越えるのは、生まれて初めてのことでした。真夜中でもあり、しかも当時の国際情勢もあり、ソ連もルーマニアも国境警備はきわめて厳戒です。ナトリウム灯が薄暗く、しかし危険な暗黒を作り出すことないよう照らす中、自動小銃を抱えた警備兵たちが微動だにせず列車を見守ります。本当に緊張感が漂う光景なのですが、その雰囲気に長時間浸っている暇はありません。何せ、ソ連の出国審査官は、私の荷物を見事にひっくり返してくれました。片づけないと私も、同じコンパートメントのイラク人留学生たちも眠れません。彼らが連結器のところで呑気にタバコでも吸っている間にトランクに荷物を詰め込んでいると、隣のコンパートメントの女性客(国籍不明 — 聞き損ねたため不明、外見だけでどこの出身かわかるほどこの辺りの人たちは甘くない、年齢不明 — これを聞いたらどつかれる)がやってきて、「いっぱい荷物あるね、でもどうせ今、片づけてもルーマニア人がまた全部ひっくり返すよ、だからしてもムダよ」とからかう。彼らはみな何回もこの列車に乗っているようなので、よくわかっています。それでも、ある程度片付きました。
そうこうしているうちに、静かに走った列車はルーマニアの最初の駅ヤシに着きます(一応私の持っているダニューブ・エクスプレスのチケットの経由地には「キエフ、ウンゲニー、ヤシ、…」と書かれています。ですので、この駅がヤシ駅だと思いますが、本当のところはわかりません)。時刻は午前2時半ごろです(ソ連とは1時間時差があります)が、入国審査が始まります。
ルーマニア入国にあたって、私には一つ小さいながら、もし的中すると大きな問題になる不安がありました。それはルーマニアのビザ(査証)を事前に取得していないということでした。この当時、日本人がソ連、東欧といった共産圏諸国へ渡航するのはなかなか手続きが厳しかったのです(今はどうなっているか、よく知りません)。当時、個人がソ連へ渡航する場合、1)ソ連の国営旅行会社「インツーリスト」と提携している日本の旅行会社へ渡航希望(いつからいつまでの期間でどの都市に行きたいかを書いたもの)を出す、2)旅行会社がその希望をインツーリストへ照会し、インツーリストはそれを適当にアレンジして入国から出国までの全ての都市間の移動手段(飛行機、鉄道)および宿泊施設のスケジュールを決定して旅行会社へ通知、3)スケジュールを了承すれば料金を払い込む、4)その料金支払いの証明書「バウチャー」がテレックス(何だかわかりますか?)でソ連から旅行会社に届く、5)パスポートと受け取ったバウチャーを持って渡航者がソ連大使館へ出向きビザを取得する、という手続きが必要でした。ちなみに今回、私がこの手続きをしたわけではなく、このすべての段階を旅行会社が代行してくれたのですが、ダニューブ・エクスプレスに乗るのは私単独の行程ということで、旅行会社はインツーリストへの手配のみで、ダニューブ・エクスプレスの分のバウチャーは私がモスクワまで持って行って、直接インツーリストのオフィスでチケットを受け取ることになっていました。ですので、東欧諸国のビザの取得を日本国内でするかどうかは私が判断することでした。ブルガリアの通過ビザは取得しておいた方がいいとのことだったので取得を依頼しましたが、直前に地図を見るまで、ダニューブ・エクスプレスがルーマニアも通過することには、気づいていませんでした(アホです)。旅行会社に聞いてみると、「ルーマニアは入国時でも大丈夫だろうと思いますけど」と曖昧な返答でした(国際情勢は猫の目のようにコロコロ変わるので、この返答を責めることはできません、なんせひと月以上も先のことです)。出発目前に東京のルーマニア大使館に電話してみると、いきなり“Hello”と英語の返答、「日本語ができる人に代わってください」などというのも忘れて、しどろもどろの問答ののち、どうやら入国時でも通過ビザならば取得できそうだとはわかりましたが(このとき、せめて「大使館」「領事館」「観光ビザ」「通過ビザ」ぐらいは英単語を覚えておこうと思いました)、英語なので言質を取ったとは言えません。ダニューブ・エクスプレスに乗り込んだときも、イラク人留学生たちは、「お前、ビザを持っているのか」と聞いてきましたので、一抹の不安がよぎります。とはいえ、西側諸国に対して穏健なルーマニア(これは1984年のソ連、東欧諸国はそろってボイコットしたロサンゼルス・オリンピックにルーマニアとユーゴスラビアだけは参加していたということだけが根拠です)だから、まあ大丈夫だろうという希望的観測(今考えると無謀です)を持ってはいました。
案の定、私のパスポートを見てビザがないことを知った入国審査官はそのままパスポートを持ち去りました。ただ、慣れているはずのイラク人留学生たちのパスポートも持って行きましたし、彼らは当時の赤い表紙である私のパスポートを見て、“Oh, communist colour!”などと囃したてていたので、意外と緊迫感はありませんでした。とはいえ、海外でパスポートが手元にないというのは不安なものです。
15分後ぐらいでしょうか、入国審査官が戻ってきました。イラク人たちにパスポートを返し、カネを請求しています。彼らもカネが必要なら私も必要かと思い、財布を出そうとすると、彼らはなぜかその手を遮りました。私はなぜかカネを請求されることもなく、パスポートを返され、中にはルーマニアの通過ビザがしっかり押されていました。
案ずるより産むが易しという形で、ダニューブ・エクスプレスの行程で一番不安があった問題が解消されました(トラブルを期待していた皆さん、ごめんなさい)。旅のベテランであればよくあることなのかも知れませんが、パスポートとビザの区別もろくにできない、飛行機に乗るときの手続きも知らないビギナーであった当時の私にとってはたいへんなことだったのです。帰国後に知ったのですが、当時のルーマニアは、出国後の国のビザを持っていれば通過ビザは入国時に無料で取得できるとのことでした。ブルガリアのビザを取得していた(パスポートに張り付けてある)ので、無事で済んだ訳です。
続いて、荷物検査が始まります。また、長時間かかったら、と始まる前からいささかうんざりです。今度は、厳めしい制服に身を包もうとしても包みきれない巨大なオバちゃん検査官がやってきました(ソ連、東欧には男女を問わず立派な体格をされた方が非常に多数いらっしゃいます。体重計1台で測れる120キロを越えなければ許容範囲だということです)。オバちゃんがコンパートメントに入ると部屋の容積が減り酸素が足りなくなるので、私はコンパートメントの外に追い出されます。オバちゃんは私のベッドに座り、整理がまだ終わってないトランクを開けると、あっちこっちと手を入れては変なものが入ってないかを調べています。私は一人で勝手に緊張します。オバちゃんが座っている私のベッドが重みに耐えかねて「キー、キキキー、キー」ときしんでいるからです。ここでベッドを壊されたら私の寝る場所はありません。ソ連のホテルでよく起こるトラブルとして、突然テレビが火を吹くというのが有名でしたが(だから、ソ連のホテルに着くとまずテレビのプラグを抜いてました)、客の体重でベッドが壊れるということも日常茶飯事だということが思い出されます。ホテルにはベッドの修理工が24時間体制で詰めているそうですが、列車内にはさすがにいないでしょう。車中あと2泊、最高気温氷点下10度のモスクワからはかなり南下したといっても、暖房が効いているとはいっても、床の上は寝るには寒すぎます。一つの問題が解消されても、新たな問題が起こるかもなあ、と思いつつ見守ります。
幸い、今度は10分ほどで終了でした。オバちゃんは荷物をそう荒らすことなく、ベッドを破壊することもなく、何も言わずに去って行きました。ウンゲニー駅到着から5時間くらい経過していました。ようやく、私の人生最初の陸路の国境越えは終わりました。25時間あったダニューブ・エクスプレス2日目はようやく終わりました。オバちゃんの体重に耐えきったベッドをねぎらいつつ、私は眠りに落ちました。国境越えはあと2回待っています。

(列車はちっとも前に進んでいませんが今回はここまでです。話が前に進まないのは何もかも国境が悪いのです。私も長時間停止せざるを得ません)

片岡尚樹