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開成教育グループ


2012 年 1 月 のアーカイブ

ダニューブ・エクスプレス(その 6)

2012 年 1 月 31 日 火曜日

 ソフィア駅で私たちを待っているはずの列車の姿は、プラットホームにはありませんでした。同じプラットホームに戻ってきたはずです。いくらソフィア駅が大きいとはいえ、また、いくら私が酔っぱらっていたとはいえ、それくらいの分別はあるはずです。でも、列車の姿はありません。まさか、置いてきぼりにされたのか。もしそうならば、どうすればよいのか。荷物は、ほんのわずかしか持って出てきていません。トランクも列車の中です。パスポートや所持金は全部持って出たので、帰国もできない、身動きもとれないという最悪の事態ではありませんが、もし、列車が行ってしまったのならば、かなり危機的な事態です。以前、ブハラ(当時はソビエト連邦の、現在はウズベキスタンの都市)のホテルに着いて、街を高いところから見ようと、屋上にエレベーターで上がったところ、街を眺めることはできず、がっかりして下へ降りようと思ったら、エレベーターを呼び出すボタンが壊れていて、閉じ込められたときのことを思い出しました。もし、私が同室のイラク人留学生たちと別行動を取り、単独でソフィアの街に繰り出していたならば、相当なパニックに陥っていたことでしょう。でも、頼みの彼らも困惑した顔をしていました。
 しかし、彼らには語学力があります。ちょうど、プラットホームに停車していた通勤列車の車掌に話しかけます。しばらく会話を交わしたのちに、その列車に乗り込みました。彼らは一体何をしようとしているのか、お前も乗れと彼らが言うので、私も乗り込みます。でも、さっぱり話が見えません。
 すぐに列車は発車し、唯一明るかったソフィア駅を出発し、暗闇の中へと走り出します。意外なことに車内は日本の通勤列車と変わらない明るさでした。モスクワの地下鉄が駅の明るさとは対照的に車内が薄暗く、ときには真っ暗になるのと比べれば、信じられないくらいです。
 乗ったのはほんの数分でした。次に停車したのは、満足なプラットホームもない薄暗い場所でした。留学生たちはそこで車掌にもう一度何かを確かめると、私にも促し列車を降りました。下車すると列車は去って行き、暗闇に目が慣れてくると、ようやくどこにいるのかわかってきました。操車場でした。数百メートル向こうに明かりが見え、多くの列車が係留されているのが見えました。どうやら、私たちが乗っていたダニューブ・エクスプレスの車両もこの中のどこかに係留されているようです。
 私たちは線路に躓かないよう薄暗い操車場の中を歩いていき(といっても私は後を付いていっただけですが)、今思えばどうやって見つけたのだろうとは思うのですが、ようやく自分たちの車両を見つけました。外から見る限り車内の灯りは点いていませんでしたが、ドアをたたくとモスクワからずっと一緒だった車掌らしき人物が出てきました。私たちは暗闇の車内に乗り込み、そのまま自分たちのコンパートメントらしき場所に戻りました。何せ、完全に車内は暗闇だったので、本当にここが自分の乗るべき場所なのか確信は持てませんでした。もし違っていたらどうしようと思いつつ、アルコールの血中濃度もそれなりに高まっていた私は、不安と緊張よりも強い睡魔に屈し、そのまま眠ってしまいました。神経が図太いのか、根が単純なのか、とにかく無謀なことをしたものです。
 酔っていたこともあり、記憶が正確ではないのですが、今になって考えてみれば、5時間も停車しているのだから、ずっとプラットホームに列車が停車しているわけがありません。ダニューブ・エクスプレスとして、モスクワからイスタンブルまで走るワゴンは私たちの1両だけです。発車時刻が近づけば、他の場所から着く列車やソフィア始発の列車と連結されて、駅のホームに現れるでしょう。それまではどこかに留置されているに違いありません。だからと言って、単独ではないとはいえ操車場に行ってそこで列車に乗り込むというのはあまりにも無謀でした。よく、事故に遭わずに済んだものだと本当に思います(この日の3日前に中国で「上海列車事故」が発生しており、日本から修学旅行に行っていた多くの高校生が犠牲になったことを帰国後に知りました)。それにしても、どうやって暗闇の操車場の中で列車を見つけたのか、私が見つけたわけではなく、今となっては確かめるすべもありません。ひょっとすると奇跡的に見つけられたのではないか、ただ運がよかっただけなのかとも思われます。

 ということで、再びソフィア駅に列車が入り、改めてソフィアを出発したことを見届けることもなく、私は爆睡状態にありました。次に目を覚ましたのは、コンパートメントのドアを激しく叩く音でした。寝ぼけていたので、それが何時ごろのことなのか、外ではすでに夜が明けていたのかさえ、全く記憶にないのですが、それはブルガリアの出国審査でした。ただ、パスポートを渡し、返されたことだけを覚えています。他には何も聞かれませんでした。ソ連の出国、ルーマニアの入国、出国、ブルガリアの入国、出国とどんどん審査が甘くなってきました。あとで見ると、パスポートに貼られたブルガリアの通過ビザに、ルーセでの入国時と同様、出国を示すスタンプが押されていました。ただ、そのスタンプがあまりにも雑に押されているために、出国地の地名が何なのか判読できないものでした。
 それからまた列車は走り出しました。まだ寝足りなかったので、そのあともひたすら寝ていたのですが、やたら高速で走っていたのを覚えています。こんなにスピードが出せるのだと少し感心しました。この地域はブルガリア、トルコ、ギリシャの国境が入り組んでいるあたりなので、飛ばしていたのかもしれません。ブルガリアを出国してかなりの時間が経った後(といっても寝ていただけでしたが)、列車は停車します。もうそこはトルコ領のカピクレという駅でした。
 カピクレでのトルコの入国審査は、車内ではなく駅舎で行われました。ソ連、ルーマニア、ブルガリアの出入国審査がすべて車内でなされていたのに対して、トルコは仰々しいのか、意外と入国審査が厳しいのかと、恐る恐る列車を出ると、まず驚いたのは青い空、まぶしい太陽でした。3月のソ連では雲に覆われた太陽しか拝むことはなく、また、ダニューブ・エクスプレスから外に出たのも、雨の中のキエフの数十秒と夜のソフィアだけでした。南に来たのだ、そして春になりつつあるのだという実感。これに、安全は確保されているとはいえ、出入国についても市内での行動も厳しく管理されていた共産主義圏から資本主義圏に帰ってきたということも重なって、大きな開放感を感じました。
 入国審査を受けるために駅舎に入ります。いくつかの窓口に人が並んでいます。駅舎での入国審査は初めてなので、すこし緊張します。私の窓口で対応したのは女性の審査官でした。彼女にパスポートを渡し、写真と照合するだろうと思い、メガネをはずしておきます。が、彼女はパスポートをめくり、キーボードに何かを入力すると、こちらを全く見ることなく大きく振りかぶると、入国スタンプを豪快にパスポートに打ち込む(「押す」というより、「打ち込む」と言った方が雰囲気が伝わります)と、そのままパスポートをつっ返しました。私の方は全く見ず、写真と照合するということは全くありませんでした。このときほど日本のパスポートを世界がどう見ているのかを感じたことはありません。そして、トルコが「親日国」なのだということも、つくづく実感しました。この後も私は、トルコを2回訪問しましたが、やはり入国時に写真照合を受けた記憶がありません。そして、いつも出入国のスタンプは、豪快に打ち込まれました。この音は耳にこびりついています。

センター試験を終えて

2012 年 1 月 23 日 月曜日

 みなさんこんにちは。このブログを書いている今、センター試験を終えた高3生が結果の報告に来てくれています。本年度のセンター試験は、文系教科は地理Bを除き例年並み、理系教科の一部(数学II+B)などで難化していたようです。
 各々の得点を見ていて、改めて思うのは、いち早く受験勉強に取り組み出した生徒ほど得点が安定している、ということです。とりわけ英語や地歴・公民などは、ある程度までは知識がものをいう科目ですので、学習を開始する時期の早さが結果にダイレクトに影響している、という印象を受けます。
 高3生は、これから私立対策・国公立対策と大忙しの日々が待っていますが、とにかく体を壊さぬよう、やり遂げて欲しいものです。
 また、高1・2生の諸君は、先輩たちの背中を見て、今から受験に対する意識を高めていってもらいたいと思います。

開成ハイスクール英語科

「学び」再考

2012 年 1 月 16 日 月曜日

 こんにちは。

 かつて、大学へ進学できる人間がごく限られていた時代、彼らはいわば国の将来を担うエリートとして、その強い自覚・責任感が学問に精進する動機づけとなっていました。
 今日、大学の門戸は大きく広げられ、大学生にそうした自覚は希薄になっているように思われます。目標の大学に合格した学生が、入学後、ほとんど勉強をしなくなり、学問を身につけることに対する意欲や関心が、受験が終わるとなくなってしまうという現象は確かにあるようです。
 一方、大学側も、急速に進む国際化・情報化社会の中でそれに対応すべく、学部の新設やカリキュラムの改変を試みようとするのですが、旧来の学問体系をベースにこれまで経歴をつんできた大学人たちの腰は重く、急速な時代の流れについていくことができずに、まだ模索の段階にとどまっているのが現状のようです。
 来るべき時代は、これまでの価値体系がことごとく崩壊し、従来の、既成の概念がまったく通用しなくなる、そんな時代となるでしょう。良い意味でも悪い意味でもまったく新しい未知の世界に立ち向かっていかねばなりません。これから大学生になる諸君は、そうした世界の中で新たな社会を構築していく、重大な責務を背負っているのです。そこにこそ、「知識」「学問」を身につける意味・目的を見出すべきなのです。
 そしてその第一歩として、今ある外の世界に目を開かねばなりません。それは、周囲の物事に対して、どんなことにも好奇心を持つことです。好奇心は「勉強の発電機」です。勉強へと自らを突き動かす、内なる動力です。また、好奇心を向ける対象は、どんなものにも見出すことができます。たとえばテレビなども、格好の道具となり得ます。テレビから流れる情報に、好奇心の材料はいくらでも見つけることができるはずです。
 世の中の動きを知ることなしに、大学の講義で知識だけを詰め込んでも、それは単なる学問上の空論に終わってしまうばかりで、「学ぶこと」の本来の意義・目的をそこから見出すことなどできないでしょう。
 何のための「学問」なのか。それは好奇心を持ち、広げていくことによって理解でき、また「学ぶこと」の過程で、好奇心の芽は育まれていくものなのです。

英語

2012 年 1 月 10 日 火曜日

 こんにちは。
「英語」は、諸君にとっては「学習すべき科目」「受験科目」の1つですが、当然のことながら、そもそもは1つの言語であり、国際的なコミュニケーションツールです。ところが、科目としての英語に日々たずさわっていると、その当たり前のことを、つい忘れてしまうものですね。
私が最初に英語に遭遇したのは、小学校3年生の時でした。めだかの水槽にえさを入れていると、お茶の間のテレビから突然流れてきた、圧倒的な破壊力を持つ音楽に、全身を射抜かれてしまったのです。アメリカの、あるハードロックバンドの初来日公演を、NHKが放映していたのでした。急いでラジカセをテレビの前に置き、録音スイッチをON。以降、そのカセットテープを、文字通り擦り切れるまで何度も繰り返し聞いたものです。まるで一滴の水を希求する砂漠の放浪者のように…。
 この衝撃的な音楽に乗せて、彼らが何を歌っているのか、どうしても理解したかったのです。彼らがシャウトする1語1語を聞き取り、カタカナに置き換え、使い方もままならない「英和辞書」と毎日何時間も格闘し、おぼろげながら掴めた内容の向こう側に、アメリカそのものを、畏怖と憧憬をもって垣間見たのでした。そして、英語は私にとって、アメリカを知り、感じ、自分のものとするための、まさに生命線となったのです。
物や情報が希薄であれば、かえってそれを求める欲動が強くなるものです。小学生の私が英語に強い関心を向け始めたのも、そのせいかもしれません。
今やアメリカとその文化は、手に取るように私たちの日常に浸透しているかのように思われます。だからこそかえって、英語という言語を通じて、ナマのアメリカに触れたいという欲動が生じ難いのかもしれません。
最近、インターネットを利用して、CDをアメリカに直接注文しています。日本で購入する場合と比べ、単価が非常に安く、日本では入手できないものが簡単に手に入るので、非常に重宝しています。中でも、アメリカ人が個人で中古CDを出品している場合は、物によっては1枚2.00ドルなどといったものもあります。
 その、個人出品の品が手元に届き、開封するときが何より楽しみです。ゲイリーの精一杯のお礼の手紙や、ピーターの「おまえ、何でこんなCDを聴くんだ?変わった奴だなあ。俺も変わり者だとよく言われるけれどな」といったメッセージや、ナンシーが心づくしで同封してくれた、わけのわからないチョコレート菓子がベトベトに変質していたり、とにかくいちいち驚き、笑わせてくれます。そして、私が彼ら(海外)を最も身近に感じるのは、送ってくれたCDのケースにべったり付いている指紋や、ライナーノーツの紙についているコーヒーのしみなどといった、彼らの生身の生活を生々しく喚起させてくれる物証に触れたときです。こんな形で海外を体験することもできるものかと、改めて感心しています。
当たり前のようですが、こうした「海外体験」のツールとなるのが、まさに英語なのです。
英語を通じて眺めるアメリカは、マスコミに流布している卑近なイメージをはるかに超えて、もっとリアルで、もっと大きく、そしてもっと人間的かもしれません。