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開成教育グループ


2011 年 4 月 のアーカイブ

人の成長を見ることができる喜び

2011 年 4 月 25 日 月曜日

先日、教え子の結婚式の二次会に行ってきました。
最初は仕事があったので断ろうかと思ったのですが、二次会なら少し遅れていってもいいかと思い、OKの返事を出しました。
彼が高校2年生のときから知っているのですが、立派な大人になっていました。
久しぶりに彼のお母さんとも再会し泣いてしまいました。

彼はなかなか言うことを聞かない生徒でした。
私とも何回か衝突したことがあります。
でも、そのとき未熟な私はその原因を探ろうとしていませんでした。
後で聞いてわかったことがたくさんあります。

彼は母子家庭で、働きながら塾に通い、そして母と妹を支えていたのです。
私はそんなことも察知できず、勉強のことばかり指導していました。
彼と面談しているときに私は泣いて謝りました。
彼も泣いて許してくれました。

彼は二次会で「高校時代、父親の代わりをしてくれた人」と私を紹介してくれました。
私はスピーチを頼まれていましたが、泣きすぎて何を言ったか覚えていません。

彼は成長しました。
きっといい父親になれるはずです。
辛いこともたくさんあったでしょう。
でもそれを乗り越えて今、彼がいます。

元気をたくさんもらった1日でした。

 
開成ハイスクール西田辺教室 大道英毅

苦手意識について ~新年度に向けてのアドバイス~

2011 年 4 月 19 日 火曜日

 こんにちは。
年度が改まるとき、「気持ちを新たに」とよく言われますが、生徒諸君には、特に「苦手科目」に対する意識を新たにして欲しいと思います。
 学習内容の理解は、何と言っても、学校や塾の「授業」をきちんと聞く、ということから始まります。苦手科目の場合は、初めから「難しい」「分かるはずがない」という前提で授業を受けていることも多く、つまりは「自分から理解しようとしていない」ということになり、分かるはずのものも分からなくなってしまうでしょう。
 苦手科目というのは、最初から「苦手だ、嫌いだ」と思い込んでしまっていることもあるようです。確たる根拠もない、単なる「思い込み」です。でも、そう思ってしまうと、その科目に対して前向きに取り組むことができなくなり、本当に「苦手、嫌い」になってしまいます。
 「苦手だ」と思い込むのは、「できない」「分からない」ということに対する自己防衛の言い訳かもしれません。人間は、自ら思い描く自他のイメージと、現実が一致すると、安心感を抱きます。つまり、苦手だと思い込んでいる科目のテスト結果が実際に悪ければ、現実がイメージと合致するわけですから、変に安心してしまうのです。そうした心理状況からは、改善や上昇といった意識は生じ難いものです。逆に、その科目に対する自己能力のイメージを高く抱いている人が、そのイメージに合致しない成績をテストでとってしまった場合、イメージと現実とのギャップが「違和感」「不協和感」を引き起こし、当然その不快さを払拭しようとするでしょう。つまり、ギャップを埋めるための取り組みです。これが、能動的な努力の出発点となるのです。
 その科目に対する自己イメージを、高く見積もるか、低く抱くかは、その人の自由選択です。新たな学年は、これまでのイメージを払拭するチャンスです。特に、「苦手意識」には、客観的根拠などないのですから。

いよいよ新学期スタートです!

2011 年 4 月 11 日 月曜日

 春休みもいよいよ終わり、新学期がスタートします。それに暖かい日も増えいよいよ春がやってきたなという感じですね。

 今日は成功する秘訣について書きたいと思います。
よく成功している人は、たまたま成功しているように見ますが、ほとんどの場合は、用意周到の準備された必然的な成功が多いと私は考えています。

 成功している人は、成功をイメージし、そこにいたるまでの努力を惜しまず行い、成功しています。たとえば、小説を書いて成功しようと考えた人がいます。
 まず小説を書かないと小説家となり成功することはできません。しかしその小説を書くことは才能だけでなせるものではありません。私もみんなも自分で小説を書いて、人を感動させることができるとは思わないと思います。文字だけで人を感動させることは非常に難しいことです。私なんて、直接身振り手振りを交えて話しても相手を感動させ涙させることができるとは思いません。それを文字だけで実現するということは本当にすごいことです。

 ではなぜ、小説を書いて人を感動させることができる人がいるのでしょうか。それは、小説家の人が小説の勉強以外の多くのことを含め、努力し分析しているからでしょう。また小説を書き、それを出版社に持ち込むなど具体的な行動も成功のためには必要となります。

 春ですので、何かスタートするにはよい季節となりました。あなたの成功のイメージのために何か始めてみてもよいのではないでしょうか。私も最近読めていない小説を読んでみようと思います。よい春のスタートが切れるとうれしいですね☆

前田佳邦

この4月に想うこと

2011 年 4 月 4 日 月曜日

みなさん、こんにちは。そして、高校合格を勝ち取られた皆さん、おめでとうございます。
桜の開花予想によると、近畿でも開花が始まり、4月の初旬には満開を迎えるようです。希望を胸に秘め、新年度を迎える季節ですが、東北地方を中心に大地震と大津波が襲い、今もなおその影響が現在進行形で広がっています。私自身、15年ほど前、阪神大震災を経験しましたが、そのときと較べて大きく変わったのは、一つ前のブログで片岡先生が書いているように、さまざまな情報が私たちの耳に入ってくるようになったということでしょうか。恥ずかしながら、私自身も情報の波に翻弄されそうなところもありましたが、その中でもいくつか目に留め、自身を振り返る機会があったので、そのうち一つを紹介させてください。約80年前に書かれた寺田寅彦の「津浪と人間」からです。少し長いですが、一部引用させてください(著作権の切れた書籍をネット上で公開している青空文庫より引用しています。全文はhttp://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/4668_13510.htmlで見てください。)。

学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
 しかしまた、罹災者の側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
 すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。
 災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。
 さて、それから更に三十七年経ったとする。その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。そうして、今回の津浪の時に働き盛り分別盛りであった当該地方の人々も同様である。そうして災害当時まだ物心のつくか付かぬであった人達が、その今から三十七年後の地方の中堅人士となっているのである。三十七年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば一万三千五百五日である。その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打際を照らすのである。津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。

この文章は昭和8年に東北を襲った地震と津浪を受けて書かれた文章ですが、まったくもって現在の状況と同じ状況が繰り返されているのだな、という思いをもたされました。またここまでだと人間は進歩しないものというようにも読めますが、この文章は以下のように続きます。

(中略)
困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。
(中略)
科学が今日のように発達したのは過去の伝統の基礎の上に時代時代の経験を丹念に克明に築き上げた結果である。それだからこそ、颱風が吹いても地震が揺ってもびくとも動かぬ殿堂が出来たのである。二千年の歴史によって代表された経験的基礎を無視して他所から借り集めた風土に合わぬ材料で建てた仮小屋のような新しい哲学などはよくよく吟味しないと甚だ危ないものである。それにもかかわらず、うかうかとそういうものに頼って脚下の安全なものを棄てようとする、それと同じ心理が、正しく地震や津浪の災害を招致する、というよりはむしろ、地震や津浪から災害を製造する原動力になるのである。
(中略)
自然の方則は人間の力では枉げられない。この点では人間も昆虫も全く同じ境界にある。それで吾々も昆虫と同様明日の事など心配せずに、その日その日を享楽して行って、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという棄て鉢の哲学も可能である。
 しかし、昆虫はおそらく明日に関する知識はもっていないであろうと思われるのに、人間の科学は人間に未来の知識を授ける。この点はたしかに人間と昆虫とでちがうようである。それで日本国民のこれら災害に関する科学知識の水準をずっと高めることが出来れば、その時にはじめて天災の予防が可能になるであろうと思われる。この水準を高めるには何よりも先ず、普通教育で、もっと立入った地震津浪の知識を授ける必要がある。

中学から高校に進学しても、やはり勉強は続きます。なんのための勉強だろうと思うこともあるでしょう。寺田寅彦は「人間の科学は人間に未来の知識を授ける」と言っています。不肖ながら私自身も大学で長く科学を学びました。その経験から言えることは、知識は人の目を開かせるということです。挫けることなく学ぶことを忘れないで下さい。出来るかぎり良いといわれる大学を目指してください。そこで学ぶこと、出会う人を通して多くの宝を得ることができます。それが皆さんの未来を作っていきます。開成ハイスクールは、そんな皆さんのお手伝いができると確信しています。

数学科 村上 豊