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開成教育グループ


ダニューブ・エクスプレス(その 7・完)

 かつて、イギリスの首相だったウィンストン・チャーチルは、ヨーロッパにおける東西冷戦の緊張状態を「鉄のカーテン」と呼びました。物理的に国境に「鉄のカーテン」があるわけではありませんが、ブルガリアからトルコへと国境を越えることは、まさにこの「鉄のカーテン」の向こう側からのこちら側へ戻ってくることでありました。統制された国家内の、統制された旅からついに解放されたわけで、それまでの冬のどんよりした曇り空から、春の青空になったことも相まって、トルコ、エディルネに到着したときの私は、大きな解放感と安心感を感じました。
 しかし、それはまた、社会主義の、統制されているがゆえの安定した世界から、自由主義の競争にさらされた世界への帰還でもありました。エディルネ駅では列車の到着に合わせて、銀行が開店していました。そこで、私は少しばかりの両替をしました。手元にある20ドル札だけトルコリラに両替しておこうと思ったわけです。列車の終着駅イスタンブルまでは、あと10数時間です。その先の予定はホテルの予約を含めて、一切何もありませんでした。先立つものはキャッシュです。日本を発つ前に見た最新のレートは1ドル=約900トルコリラでした。変動が激しいトルコリラ、正確にいえば、インフレで国際市場でも国内市場でも価値が下がり続けていたトルコリラでしたので、おそらく、1ドル=1000トルコリラ近くまでのレートになっているだろうと思っていました。すると、その交換レートはなんと1ドル=1205トルコリラでした。たった3か月で通貨価値は4分の3まで下落したのです。それまでのソ連のルーブルは、闇のレートは別として、ずっと1ルーブル=214円でした。社会主義の世界から自由主義の世界へと帰還するということは、こういう厳しさに直面することでもありました。
 エディルネでも新たに車両を増結し、列車は出発します。当然ですが、私の乗っている車両以外にモスクワからやってきた車両はありません。ヨーロッパ各地からやってきた他の車両とともに、ヨーロッパの東端、イスタンブルを目指します。車窓からジャーミー(モスク)が見えます。ここは資本主義世界であると同時にイスラーム圏でもあるということが実感されます。海も見えます。アドリア海です。暗鬱なバルト海や黒海とは違って青い海です。冬を玄冬と呼び春を青春と呼ぶ、季節に色をつける感覚が、すっかり季節感をなくした日本人に改めて実感させます。列車はボスポラス海峡の南の端を通過した後、イスタンブルのシルケジ駅へ到着し、列車の旅もついに終わりを迎えました。このあとも酒臭いくせにしっかりボッたくるタクシー運転手、ホテルリストに記載されていながらクーポンの使用を断るホテルと、ちょっとしたハプニングが続きましたが、何とか久々にゆっくり眠れるベッドの上で、この日を終えることができました。

 これはもはや四半世紀近く前の話となりました。このあと程なくして世界は大きく変化しました。この旅の翌年の1989年、ポーランド、ハンガリーから始まった東欧、中欧の民主化の波が次々と各国に波及し、共産党の独裁政権は相次いで消え去って行きました。「鉄のカーテン」の象徴であったベルリンの壁も破壊されました。その中でも最も劇的な変動をしたのが、私も通過したルーマニアでした。1989年12月21日大統領チャウシェスクが群衆の前で演説中に爆発が起こり、そのわずか4日後の25日にはチャウシェスク夫妻が処刑され、その銃殺される映像が全世界に配信されました。
 私が通過したブルガリアは比較的穏健に民主化がなされましたが、3週間を過ごしたソビエト連邦は、ルーマニアほど急速ではないにせよ、やはり劇的でした。1991年8月に起こった反ゴルバチョフのクーデターをきっかけとして、東西冷戦の一極をになったソビエト連邦は1991年末に消滅し、世界史上初の社会主義国家だったソビエト連邦は、歴史の教科書の上だけの存在となってしまいました。
 私が訪問したときには、全く兆しがなかったとはいえないものの、それから1年や2年でその国が消滅する、体制が根こそぎ変わってしまうなんてことは想像できないものでした。私が各国で出会った人たちもそんなことを想像していたでしょうか。おそらく市井の人々は思ってなかったでしょう。
 私もこの旅で経験したこととその後の変動を目の当たりにしたことで、今、当たり前のことが明日どうなるのかわからないという世界観を植え付けられました。だから今もそう考えてちゃんと今を生きているのか、と問われるとつらいのですが、そんなことを感じさせてくれたダニューブ・エクスプレスもその世界の激動を受けて、今は走っていない…。
開成ハイスクール 片岡尚樹


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