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2012 年 6 月 4 日 のアーカイブ

ダニューブ・エクスプレス(おまけ)あるいはイスタンブル事情

2012 年 6 月 4 日 月曜日

 ダニューブ・エクスプレスの終着駅は、イスタンブルのシルケジ駅でした。このイスタンブル(よく日本では「イスタンブール」と言われますが、現地では「タ」にアクセントを置きます)は、世界で唯一のアジアとヨーロッパにまたがる都市です。マルマラ海と黒海を結ぶボスフォラス海峡をはさんで、東側がアジア側、西側がヨーロッパ側、さらにヨーロッパ側は金角湾をはさんで、南側が旧市街、北側が新市街になっています。ダニューブ・エクスプレスは、ヨーロッパ側の旧市街をマルマラ海に沿って走り、旧市街を回り込むようにして、金角湾の入り口にあるシルケジ駅へと到着します。
 シルケジに到着すると、まず宿探しでした。一応、ホテルのクーポンをもっていた私は、使用できるPホテル — ここはイスタンブルでも有名な老舗でありまして、あの「オリエント急行殺人事件」のアガサ・クリスティやトルコの初代大統領である「国父」ケマル・アタチュルクも泊ったというホテルでありました。つまり、クーポンでもなければ、手が出ないホテルです — へと、タクシーで向かうことにしました。
 タクシーに乗ると、あごひげを生やし、トルコの民話「ナスレティン・ホジャ」のホジャのような風貌の老人でありました。一見、人の良さそうな老人でありましたが、酒臭い。ホテルの名前を告げると、前金で750円請求します。最初なので、どのくらいの距離かわからない — 簡単な地図はありますが、この時点では距離感がつかめない — ので、しょうがなく払います。
 タクシーが走ると、地図とつき合わせながら、距離をつかみます。近い。旧市街と新市街とを結ぶ、イスタンブルの象徴とも言えるガラタ橋(トランプの「ブリッジ」はこの橋だそうです)を渡り、交通量が多い街なのでゆっくりと走るのですが、あっという間に着きます。これで750円は高い。とはいえ、最初は授業料です。
 Pホテルに着きます。クーポンを見せます。すると、なぜか使えないと言う。すったもんだがありましたが、やっぱりダメ。クーポンなしではここは1泊 1万円はする。しょうがないので、Pホテルのボーイが紹介してくれた向かいにある Kホテルに泊まることにしました。ここは 1 泊 1000 円でした。何とこのホテル、日当たりは最悪でしたが、ちゃんとエレベーターもあり、トイレは水洗、バスにちゃんとお湯が出ます。モスクワ以来久々にシャワーを浴びることができました。フロントのオバちゃんも愛想がよく、居心地がよいところでした。ただ、オバちゃんが以前泊った日本人旅行者に貰ったらしい使い捨てカイロをどう使うのか聞いてきたときは、それを開封せずに、しかも英語で説明しなければならなかったので大変でしたが。
 さて、このイスタンブルのタクシーですが、運転手はほぼ誰でも英語が通じ、ふつうはきちんとメーターが付いていて(もう一度 Kホテルからシルケジ付近までメーター付きで乗ったところ、250 円ほどでした)、非常に乗りやすいのですが、何せ、飛ばす、飛ばす、飛ばすのです。この最初の運転手は飲酒運転であるにもかかわらず、おそらく私が乗った中では最初で最後の安全運転でした。空港と市街地を結ぶハイウェイ(というほどは整備されていない。穴ぼこもよく開いてる)だけでなく、市街地の一方通行の狭い道を逆走するときでも、また前に横断している人がいようとも、アクセル全開で突っ込んでいきます。運転が粗いと言われる大阪人も、名古屋人でも太刀打ちできません。バンコックのタクシーよりはおとなしかったかもしれませんが…。そう考えれば、英語が通じるだけイスタンブルのタクシーの方がマシですが、現在はどうなのかはわかりません。
 私はこの Kホテルに 4 日間滞在したのち、当時、日本人バックパッカーのたまり場として有名だった Mホテルへと移りました。ここは 1 泊 300 円でした。トイレ、バスは共同のドミトリー、バスのお湯は出るかどうかは運と要領で決まるというところでした。ここは自炊もできるところで、謎の日本人のオジサン集団がひと月以上滞在していて、毎晩、号令をかけながら、料理を作っていました。この人たちはいったい何者なのでしょうか。他の日本人旅行者も、イランに行ってきてこれからヨーロッパへ行く人たち、ヨーロッパを回ってこれからイランに行く年齢不詳の女性、テヘランに半年住んでいた学生、ホテルにやはり数カ月逗留しているけどホテルにもあまり帰ってこない(と聞いただけで実物には会ってはいない)人など、強者ぞろいでした。何せ、当時イランはイラクと戦争中で、テヘラン市街にはイラクのミサイルが連日撃ち込まれていた時期です。とくにイランを旅行してきた人たち(何人もいました)はイラン国内でも何度か出会った人たち同士らしく、再会するなり、「よく、(イランを)生きて出られましたね」と互いの無事を喜んでいましたし、テヘランに住んでいた学生の半年間の話はもっと凄まじいものでした(でも彼はことあるごとに「イランに帰りたい」と言っていましたが)。旅行者の多くはイスタンブルへ到着すると、アジアから来た旅行者は緊張感が解け、ヨーロッパから来た旅行者は物価の余りの安さにずるずると居着いてしまうようです。そして、私もその一人でした。本当は、ここからさらにアテネかローマでも行くかと思っていたのですが(せめてユーゴスラビアは行くべきでした)、居心地の良さもあり、昼前に起きてはホテルのロビーのテレビでボケーとフトボル中継を見(ただ、当時のトルコのテレビは番組が少なく、突然ホワイトノイズが轟音を響かせることが多々あり、なかなか居眠りはできませんでしたが)、そのまま夜は飲んだくれるという、旅行者の自覚に欠けた生活を送るはめになりました。そのような強者の中でもソ連に行った人間は珍しいらしく、私はいろいろと事情を聞かれました。
 しかし、こんな時代はもうイスタンブルにもないようです。このあと、イラクのサダム・フセインは、クウェートへ侵攻し、さらに湾岸戦争へと発展しました。これ以降、イスタンブルのホテルの値段は急騰し、この 5年後にはKホテルぐらいの中級ホテルでも1 泊 40ドルなら格安という状況になります。日本人も裕福になり Mホテルのような超格安ホテルに泊まる日本人もほとんどいなくなったようです。とくに、私が最初に訪れたのが 1988年、2回目に訪れたのが 1993年だった(さらにもう1回行っています)のですが、現地に住んでいる人に聞いた話では、この5年間のイスタンブルの変動はかなり大きかったようです。「いい頃に来ましたね」とその人は私に言いました。
 今、イスタンブルは世界遺産に登録され、日本からも相当の観光客が訪れるようです。今も当然魅力のある街なのですが、最初に行ったときに感じたあの独特の雰囲気、猥雑さというと少し不適切なのかもしれませんが、モダンからポストモダンへと脱皮する直前の数多くのものが錯綜した雰囲気はもう味わえないのかもしれません。

開成ハイスクール 片岡尚樹