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開成教育グループ


2018 年 6 月 11 日 のアーカイブ

そこに喜びはあるか

2018 年 6 月 11 日 月曜日

今日はお勉強内容とは少し離れて、私の高校時代の先生のお話です。

高校に入学し、中学校と明らかに違っていて戸惑ったことが「予習の重要性」です。もちろん中学校でも予習は大切です。しかし、高校の予習の意義は中学校のそれとは明らかに違っていました。そもそも、予習をしておかないと授業についていけません。とくにそれを痛感した教科が、私にとっては「英語」と「古典」でした。その「古典」の先生について少しばかり。

文系教科はあまり得意でなかった私。高校の授業を受けたときは面食らいました。「速い。」そのスピードたるや中学校の比でない。必死に予習をしました。しかし、追いつかない。私の予習は文章を完全に日本語訳(現代語訳)するというもの。私が1日にできる量は英語ならせいぜい5~10ページ弱。授業では速ければ10ページを1日で超えることがありましたから、授業の後半で先生に英訳を尋ねられたときには、予習が追い付かず答えられないことも多々ありました。せっかく予習をしているのに自分はできない。「英語」という教科に関して私はそれで挫折したことがありました。

一方「古典」。古典の先生は学校でも厳しいと有名な先生。周りのみんなは先生に質問されてもすらすら答えます。一方私の訳たるや、直訳中の直訳。辞書の単語をただただつなげただけのような無骨な訳でした。答えるのが恥ずかしいくらいの。ある日の授業のこと、クラスメイトが先生に教科書の文の訳を尋ねられ、私が聞いて惚れ惚れするくらい美しい訳を答えました。しかし、それを聞いてその先生は大声で怒鳴りました。「その訳はどこかで聞いたことがある。どこの大学生の訳や、どこの出版社の訳や、言うてみい」と。クラスメイトは下を向き黙ってしまいました。どこかの本にある訳をそのまま読んでいただけだったのです。奇しくもそのすぐ後に訳を尋ねられたのが私でした。恐る恐るいつもの、ただ単語をくっつけただけの無骨な訳を顔を真っ赤にして答えました。「何やその訳は」と先ほどの勢いに任せて怒鳴られるかと思いきや、先生は目を瞑り静かに言いました。「俺はお前の訳が好きや。へったくそやけど、そこにお前の努力のあとを感じる。無骨なお前の訳が俺は好きや」と。素直に嬉しかった。おかげで私は「古典」という教科が好きになりその後も継続して学習することができました。大切なのは「予習」という行為そのものにはないということです。それによってその後得られる「達成感」とか「喜び」にあるのではないでしょうか。あなたの学習の先には「喜び」はありますか。

 

木村 智一郎